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聖書の話です。知らない預金の夢を見る、という話です。

まさに手探り・・・。

こういうお話は、いかがでしょうか?


「私の助けは来る。天地を造られた主のもとから。」
  ( 旧約聖書 詩編121編2節 )

大学時代、アルバイトをしていた会社の事務所に、非常食の乾パンがありました。防災意識の高い会社で、そういう備蓄品が充実していたのを覚えています。

ある日、非常食の乾パンの消費期限が来てしまったので、本当は良くないことなのでしょうが、そこの社長さんが、「これ全部あげるよ」といって、一斗缶にギッチリ詰まった乾パンをタダでくれました。

そこから、私の乾パン生活のスタートです。

きっと、社長さんも分かっていたんでしょう、私がその時、人生で一番の極貧状態であったことを。一度止められた携帯電話を使うには、再起動しないと電波を拾ってくれない、ということを知ったのもこの時です(回線SoftbankのSHARP製ガラケーでした)。

そんな日々を過ごしていた私にとって、乾パンはとても有り難い、まさに「天からのパン」でした。日が経ってだいぶ堅かったですが・・・。朝も乾パン、昼も乾パン、夜も乾パンという毎日がしばらく続きました。

そして、当時通っていた教会の子ども遠足で、キャンプ場に遊びに行った日も、私のお弁当は乾パンでした。その頃には、すでに私の食事は乾パン一択でしたので、なんの違和感も抵抗感もなく、広げられたブルーシートの上で、ごくごく自然に食前のお祈りを捧げ、そして乾パンをかじりました。

が、その様子は、どうやら周りのスタッフや子ども達にとって衝撃的だったようです。

「えっ、え?! 何食べてるの?」 

子ども達にはネタにされ、同年代からは不憫がられ、先輩スタッフには心配してもらい、優しい人から物資援助があり(これは非常に助かりました)。とっても思い出深い遠足となりました。

そんな貧乏な時期も、でも、けっこう楽しく過ごしていたように思います。私は教会が好きでしたので、毎週教会に通えて、教会員さんとしゃべって笑って遊びに行って、あと時々、牧師から美味しいご飯を奢ってもらえるのも嬉しかったです。

貧乏学生にご飯の効果は絶大ですね。

また、キリスト教が教えてくれる世界観も好きでした。「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたはこの希望を福音という真理の言葉を通して聞きました。」(コロサイの信徒への手紙1章5節)

私たちは、「希望を抱く」とか「希望を持つ」という言い方をしますが、キリスト教的に言えば、希望は「天に蓄えられているもの」なんですね。自分の手元にあるものじゃないんです。

だから、今、自分がどんなに落ちぶれて、どんなに貧乏でも、希望は消えない。今の自分が嫌で仕方なくて、自己嫌悪するにしても希望はある。だって、希望は天に蓄えられていて、自分の状況には全く影響されず、必要な時にちゃんと与えられるからです。私は、そんな風に考えるキリスト教が好きになりました。

ある人は、「天に蓄えられた希望」について、「それは自分の口座残高がゼロやマイナスになっても、まだ、神様のところに預金があるみたいなもんだ」と言いました。まぁ、ちょっと生々しいたとえですが・・・。でも確かに、自分の手元や視界にある希望の残高はゼロでも、神様のところには必ず希望は残されていると思うと、ちょっと安心。

冒頭に書いた聖書の言葉も、それと同じようなことを伝えています。

「私の助けは来る。天地を造られた主のもとから。」

目先の出来事に心奪われて苦しい時でも、神様のところから助けはやってくる。そう信じてみることで、ちょっとだけ力が戻り、また少し前か、あるいは後ろに、進むことができるかも知れません。信じることというのは、私たちが何か大切なことを行う際の、必要な予備動作みたいなものなのです

ーーーーここまで。

タイトルの付け方、行間の入れ方・・・
手探りですね。

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
また、ちょっと工夫してみます。

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手探り牧師
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