
探し求めることの極意 |聖書エッセイ|
はじめに
学生時代の想い出です。
ちょっとだけ聖書のお話が入ってます。
クスっとか、フフっとか、エッとか、なってもらえると嬉しいです。
ちなみに、新たな試みで、語調を変えてみました。
いつもは「です」「ます」調なんですけどね。
初めての学術大会
昔、「日本オリエント学会」という学術団体の年次大会に参加した。
と言っても、雑用係の学生スタッフとして雇われた形で、自分の知識や学力を評価されたわけじゃない。
・・・実務能力は、ちょっと認められていたのかも知れない。
初めての学術大会。
流れ巡る知的な雰囲気と、「好きなもの」が同じ人たちが集うことで生まれる温かな高揚感が、知性浅薄な私にも心地良く、そこにいられることが嬉しかった。
かなり大きな催しで、5つの会場に分かれて講演会が開かれ、数百人規模の参加者があった。残念ながら、学生スタッフは皆、講演会に参加できず、会場受付に立ってひたすら高尚な雰囲気に浸る時間を過ごした。
ただ、本当に楽しいのは講演会では無い。それは、私のような学生スタッフのみならず、正会員の皆様も一緒だったに違いない。
こういう集まりでは、必ず「懇親会」という名目で、飲み・・・、食事会が開催される。中東・アジアを研究する著名な学者が集まった、非常にアカデミックかつインテリジェントな集まりとは言え、懇親会となれば、皆楽しむことに余念がない。
学生スタッフもご相伴にあずかり、その筋の専門家による世界各地の興味深い話を、贅沢な気持ちで聴かせてもらいながら、たらふく飲み食いするという幸いを得られた。
という宴も酣でのこと、学生スタッフのもとに緊急案件が届いた。
あまりに楽しすぎたのか、時を忘れてしまった大会委員長(当時63歳)が終電を逃すというハプニングが発生したのである。
「いや、委員長、帰るつもりだったんすか?」と、何事にも、飲み・・・懇親会にも真剣に取り組む学者仲間は、酔いに乗じてイジっていた。
いやいや、どんなに大きなイベントに臨んでも、帰宅して明日に備えるという姿勢は、まさに誠実であり、潔いことだ。
まぁ、それに失敗したわけだが。
この委員長が、私の属する大学の教授だったことから、急遽「大会委員長のホテルを探せ」というミッションが私に下された。
懸命なホテル探し
その時期は、ちょうど観光シーズンのど真ん中。大会が開催された週末は、近隣ホテルがほとんど満室という有様で、「探しなさい。そうすれば・・・」との聖書の言葉がよぎる暇もなかった。
当時、まだ希少性を保っていたiPhoneの画面を凝視しながら、「まぁ、適当なところでいいんじゃないの」という先輩の言葉に、「じゃあ、お前がやれよ」という感情を催しつつ、絶対、見つけてやる、との決意が滾った。
ようやく見つけた1件のホテルは、ちょっと郊外にあり、また、何となく公式サイトのデザインがWordpressっぽくて、一抹の不安を覚えたが(当時の感覚)、「泊まれるなら、どこでもいいよ」という委員長の優しい一言を受けて、そこに決めた。
楽しい会がお開きになり、委員長がタクシーに乗り込む姿を確認した後、翌日の準備に取り掛かり、そして、明くる朝・・・。
懸命なホテル探しの結末
「非常に貴重な経験をさせてもらいました」という、なんだか一周回って逆に不穏な言葉を委員長から頂いた。
聞くに、どうも、私の予約したホテルは、バックパッカー御用達の、低予算×ノリノリ×イケイケなパリピ宿だったらしく、タクシーの運転手にも、「いやぁ、あそこ行くの、大変やねぇ」とか言われたらしい。
ホテルのフロントでは、委員長が近づくなり、「え?」みたいな感じの歓迎を受け、委員長もフロント係を視認するなり「え?」となったらしく、お互いに未知との遭遇が実現したとのこと。
「若い人と一緒に過ごせて、実に楽しかった。青春というやつだね。良い経験を感謝するよ」。
「・・・それは、良かったですね。・・・ごめんなさい」。
「探しなさい、そうすれば見つかる」と、聖書は言う。
正確には、新約聖書のマタイによる福音書7章7節と、ルカによる福音書11章9節は、そう言う。今度、聖書買ったら、見てみて。
さらに、加えて「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とまで言う。
で、その結果は、「老齢の立場ある大学教授を、パリピ宿に送り込む」であったわけだ。
まぁ、そういうこともあるよね
神様の意地悪なところと言うか、粋なところと言うか。
神様は、私たちが望んだ通りのことを、そのまま忠実に叶えてくれるわけではないんだなと。なんかちょっとズレてくるんだなと。
それは日々祈る生活を守りながらも、全く祈りの通りにはいかない現実から、容易に結論できるもの。
「この祈りと熱意、ちゃんと届いてないんじゃない?」と思うことが平常運転で、結果、祈ることも、願うことも忘れてしまう。
けれど、そういう時、キリスト者はこんな風に考える。
「きっと神様には神様の御考えがあるんだ」と。
「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ書55章9節)と。
神様の御考えは、人間とは異なるのだ、と清々しいまでにきっぱりと認めて、与えられた現状を期待をもって受け入れるのが、キリスト教の良い所。
探して見つかったのが、まさかのパリピ宿なんて、ほんの序の口。委員長には悪いけど、まぁ、そういうこともある。
ていうか、良かったじゃん、知らない世界に出会えて。くらいの感じで。
もっと、さらに大変な、想定外の出来事が、この先に用意されていたとしても、まぁ、神様なりの御考えがあるんだ、と理解して先を見る。
そういう思想、信仰から生まれる安心感や希望もあるから不思議だ。
先行きの知れない、不確かな世界を私たちは生きている。
一部の人は、先見者のように振る舞い、持論を掲げて安心と確信を提供しようとする。でも、その実態は、きっと消費者とあまり変わらない。変わるところがあるとすれば、確かに努力し、人一倍、情報を集めていること。そして、その集積が人より少し多いということ。その差分を提供しているに過ぎないということ。
しかし、いくら洗練された言説に触れても、未来は知れない。
だからこそ、「探しなさい、そうすれば見つかる」という言葉を心に留めていたい。
論拠のない提言。根拠のない確信。
しかし、自分の願う理想や未来に対して、具体的な対応策が見つからず、相応しい行動も思い付かない時。
それでも、「神様、平和になる方法を教えてくれ。健康と幸せを守ってくれ。そして困っている人を助けてくれ」と、荒削りで何の工夫もない素朴な言葉で願い求めることできれば、あとは、きっと神様が、神様の御考えで、それを実現されるはず。きっと、AI以上の精度で聞き届けてくれるはず。
そう信じて歩んでいく。諦めずに期待して生きていく。
さほど劇的な生活習慣ではないけれど、停滞、低調、消沈気味な世界を改善するのは、案外、そういう確信だったりして。
もっとも、祈りの精度(?)を上げることで、次はちゃんとした宿を探し出すことができるよう、精進したいものだが。
委員長、ごめんなさい。
ーーーーここまで
いかがでしょうか。
ちょっとだけ聖書を絡めたエッセイに仕上げてみました。
感じたことがあれば、コメント頂けると幸いです。
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