愛~燦々と~♪【ごめんなさい、聖書のお話です】
はじめに
キリスト教と愛、イエス様と愛・・・。
切っても切り離せない、鋼鉄の絆です。
聖書いわく「隣人を自分のように愛しなさい」 マルコ12:31
さて、愛について、こういうお話はどうでしょうか?
それって社会の原動力では?
この社会を動かしているのは「愛」である、なんて言うと阿呆らしく聴こえますが、推し事しかり、お気に入りの愛用品や、愛車のメンテナンス、恋愛に懸ける努力に加えて、愛犬・愛猫のお世話にも余念がない。
経済を回してますね。
もっと中枢的なところでは、愛する者を守るための法整備や、社会制度設計、そして、今日も家族のためにと思う気持ち、あるいは自分の幸せのためにと願う気持ち。
人が持つ、自分や他者への「愛」が無ければ、この社会はもっとシンプルに淡々と過ぎゆくものだったでしょう。と言いますか、「愛」がなければ、社会それ自体を形成してなかったはずです。
ちょっと、話は外れますが、
言葉はどうやって生まれたのでしょうか。
いつから人間は言葉を操るようになったのか。
大方の見解では、言葉は鳴き声から進化したと言われています。でも、世界には、今も昔も多くの鳴き声を持つ生き物が存在していますから、それらを識別する必要がまずあります。
ある瞬間に、自分の耳に届く鳴き声を、それが自分に向けられた特別な鳴き声だと判断するに至った理由というものがあるはずです。そもそも、言葉の黎明期において、鳴き声と自然音(風音、波音、木々の擦れる音など)を聞き分けできた理由も必要です。
それは、今の動物たち、いや人間にとってもそうですよね。なんで、我々人間や他の動物たちは、絶えまなく響き渡る種々雑多の音の中から、親や仲間の声を聞き分けることができるのでしょうか?
「犬だったら、ワンワンって吠えるに決まってるじゃん」とか「人間なんだから言葉っぽい音声くらい分かるだろう」というような認識は、動物や人間であっても「赤ちゃん」には通用しないはずです。
何故、動物にしろ、人間の赤ちゃんにしろ、ただの音と、鳴き声(掛け声)を識別できるようになったのでしょうか?
ここに「愛」が関係しているんじゃないかと思います。
まだ、言葉の生まれていない世界にも、愛がありました。愛は、言葉よりも先に生まれていました。鳴き声で語り合う動物たちは、愛する相手を見つめつつ、一生懸命に言葉ではない声を掛けます。言葉ではないから意味は分かりません。でも、聴いている方は、自分に向けて一生懸命に語られている鳴き声を、他の多くの雑音と区別して聞き取るようになります。
明らかに自分のためにだけに聞こえてくる鳴き声を、お互いに掛け合い、そうすることで深く固い関係性を築いていきます。その確立された関係性の中で初めて、鳴き声から言葉へと進化していく下地が整っていきます。
「これは聞くに値する声だ」と気付き、「何を伝えたいのだろうか」と考え、「あなたの言いたいことは、こういうことなのか」と確認し、「気持ちが伝わるのって嬉しいね」と喜び合い、そうやって原初の言葉は育まれてきたのではないか、と。
そして、その営みは、私たちが言葉の未発達な子ども達に対してしていることと通じています。しっかりと子どもの方を向いて、「この言葉は、あなたに向けて語っています」と愛を持って伝えることの先に、言葉によるコミュニケーションが成立・実現していきます。
愛のない言葉は、相手にとって、ただの雑音に過ぎません。そういう意味でも、この言葉によって成り立っている社会を動かしているのは「愛」なんだな、と言えると思います。
「愛」とは伝えること。
推し事に精を出すのもそうだし、行きつけのお店でボトルキープしたり、いつもより時間をかけて鏡の前に立ったりすることも「愛」の一側面です。今夜の夕食を作ってあげたり、洗濯をしてあげたり、ゆっくりお風呂に入れる時間を確保してあげるのは他者への愛。そして、ドリンク片手にネトフリ、アマプラタイムを確保するのは自分への愛ですね。
言葉よりも先に愛が生まれていた、とするなら、その愛の伝え方は言葉に縛られるものではありません。「大切にしています」とか「好きです」とか皆まで言わなくても、誠実な応対を心掛けたり、笑顔を見せたり、機嫌良くしたり。自分に対しては程々の緩みを許容してあげたり。
愛を伝える方法は結構たくさんあります。「愛」なんて改めて言ったり、言われたりするのは小恥ずかしいけれど、案外、その辺に示されているものです。
そんな日常の愛に気付いてあげるのも、これまた愛ですよね。「ありがとう」を伝えられたら素敵です。頑張っている自分にも「愛」を伝える術があれば幸せです。
ーーーーここまで。
息をするように「愛」を語るのは、牧師と結婚詐欺師くらいだと、昔、誰かに聞きました。
確かに、と思います。