会ったことのない隣人。でも、楽しかった思い出。※聖書のお話です。
手探り牧師です。
所属は、キリスト教です。
タイ国での経験を、聖書に絡めて書いてみました、
良かったら、どうぞ。
これも聖書のお話です。ご賞味ください。
「わたしの隣人とはだれですか」
(新約聖書 ルカによる福音書10章29節から)
昔、ボランティアサークルの活動で、タイ国のハンセン病療養所に行き、道路舗装や水路整備などのお手伝いをしたことがあります。
普通、タイ国を旅行するなら、バンコクとかプーケットとかチェンマイなんかを巡りたいところですが、療養施設のほとんどは、地方の農村部にありますので、ある意味、最もタイ国らしいスローライフを経験させてもらいました。興味深い経験は多々ありましたが、サイン事件(?)は未だに赤面ものです・・・。
療養施設には、患者さんとそのご家族もおり、結構な大所帯で暮らしていて、未就学児くらいの子どもも沢山いました。光栄なことに、タイ国の子ども達にとって、日本のお姉さん、お兄さんというのは憧れの存在のようで、子ども達は日本の青年を捕まえては、サインを求めるのでした。
・・・というのは、後日教えてもらったお話で・・・。
私はそんな事情など全く知らないキャンプ初日、ある男の子から紙切れを渡され「これに名前を書いてくれ」と頼まれたので、ハイハイどうぞ、と紙いっぱいに自分の名前を書きました。その子は、ちょっと「?」な顔をしていましたが、とくに文句も言わず去っていきました。
しかし、次の日。
同じ男の子がやはり紙切れを持って日本の青年にアタックしていました。
ふとその紙切れに目をやると、それは前日のそれで、紙いっぱいに書かれた私の名前の周りに、沢山の名前が、慎ましやかに丁寧に並んでいました。
「なるほどなぁ、一枚の紙にみんなの名前を書いてもらうんだなぁ、知らんかったなぁ」。
私の主張甚だしい自意識過剰なサインは、今もタイ国のどこかにあるのでしょうか。
もう一つ、思い出深い出来事は、「秘密の隣人」というゲームです。キャンプ初日に、参加者は一枚のクジを引きます。そのクジには、他の参加者の名前が書いてあり、
「キャンプ期間中、その名前の人に気付かれることなく、隣人として善いことをしてあげる」
という趣向の企画でした。
クジ引き後、一夜明けて・・・。
来るわ来るわ、差出人不明の大量のココナッツ(大玉)が。
どうやって食べるの? え、飲むの? 物は届けど、思いは通じず。
為す術なくココナッツを持て余す私を、陰からそっと見守る未知なる隣人は、どうやら「こいつココナッツ嫌いか?」と思ったらしく、今度はドラゴンフルーツとスイカによる物量作戦に切り替えるのでした。
結果、私が未知なる隣人から拝受した溢れんばかりの善行を見て、一緒に行った友人が一言「おまえは千疋屋か」と。
でも、初めて食べたドラゴンフルーツは、美味しかった。そのことを、キャンプの最後、正体を明かした秘密の隣人に伝えました。
わりと過酷だったワークキャンプの中で、わりと素敵な思い出です。
日頃、隣にいるだけでは隣人と呼べないけれど、少し気張って旅した先で、素性も知らない外国人の、無垢な善意に笑い合う。そんな風にして隣人になることもあります。
「わたしの隣人とはだれですか」
この問いは、すでに出来上がった関係性を探るのではなく、私たちが、これから出会う人を「隣人」とできるか、どうか、ということを問うています。なかなか世知辛く、人を信じることの難しい社会です。でも、人と人が繋がり協力しないと立ち行かない社会でもあります。
「知らない」や「分からない」という分断の端緒を克服し、想像力と配慮を忘れず、良き隣人の輪が広がって行けばと願います。子どもだけじゃなく、大人である私たちも、異なる者同士の邂逅を、お互いに楽しみ味わって、良き隣人となることができますように。
ーーーここまで。
誰とでも仲良くしたらOKってわけじゃないですが、人間関係の食わず嫌いは、世界を狭くするとは言えるかも知れません。
お読みいただき、ありがとうございました。