7月24日 死に抗う
初めて「死」を身近に感じたのは中学3年生の頃だった。祖父だった。
医者に「今日が最後です」と言われていたが、その言葉とは裏腹にすこぶる調子が良くなっていった。「じゃあ明日会いに行こう」と言われたが、会う予定の2時間前に母の携帯に別れを告げた着信が鳴った。
受験勉強に夢中だったので中々会えなかったが、久しぶりに見た祖父は死体になっていた。口角が自然に上がっていて、本当に寝ているようだった。死んでしまったという現実が受け入れられていなかっただけかもしれないが。だが、葬式にて祖母が愛おしそうに、寂しそうに「沢山の人が来てくれたよ」と泣きながら祖父の顔を撫でているところで私も泣いてしまった。
小さい頃「死」が怖かった。何が怖いってなんにも分からないところ。何故か死の存在は受け入れていたんです。そういうものなのかと。でも詳細が分からない。私は勝手に死=無だと予想していた。夜に目を瞑ったときのようになんの光もなくて、声にならない自分の思想がうろうろしていて、「ジーー」とエアコンのような音が響く。狭いのかもしれないしすごい広大なのかもしれない。それが永遠に続く。永遠に続くのは確か。それが怖くてずっと泣いていた。
だからこそ、微笑みながら亡くなった祖父がよく分からなかった。
それから少し経って、「走馬灯」というものを知った。死ぬ間際に記憶がスライドショーのように浮かび上がってくるらしい。もしかしたら走馬灯が面白かったのかも。記憶の選抜は誰がするんだと思ったが、一瞬で祖父チョイスかと納得した。
私は少し安堵もあった。「死」は誰もが経験するのだと、私だけに与えられるものでは無いのだと分かったから。でも、今振り返るとそれもよく分からない。何故安堵したのか。とりあえず孤独が怖かったのかも知れないが、よくよく考えると、私が死んだとて死人に会える保証はない。口コミが欲しい。
経験するといっても、した瞬間に「無」になる。自殺をしてその空間からは抜け出せたとしても「無」からは抜け出せない。しかも永遠に。怖っ。どうしても、微笑みながら死ぬ自分の未来が見えない。だって、「これを見た後貴方は死にます」と言われて短編映画を見せられるようなものだ。笑うどころの話ではない。「エッ!?!待って!聞いてない!!」と言ってる間に死ぬ。焦っている顔で死体になるのも嫌だ。長生きしたい訳では無いが、どうしても抗いたい。安堵してる場合ではない。そうだよ、そもそもいつから死を受け入れなきゃいけない感じになってたのか。藻掻こう。死を逃れるルートも探せばあるんじゃないか?