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「難病と共に生きる:日々の小さな幸せを見つけた私の方法」

~ショウタロウのココロ~

Note”に投稿を始めて早、4週間が経つ頃。皆さまの投稿内容も出来るだけ覗かせて頂きました。
でも依然として私の投稿は、誰に読んでもらえてるのか?自分の“好き”を基準に投稿してきました。
 
前回にもお伝えした通り、元々X(ツイッター)もInstagram、Tik・Tokなるモノ全てにおいて活用した事は、ありませんでした。
本当に何を?どうやって?何の為に?・・・と社会人の常識5W2Hを意識しながら投稿しておりました。
 
既に、私「W」とも称して20数通の投稿をしてみましたが、常に「こんな内容で良いのかな?」「誰か読んでくれるかな?」と出来もしないのに万人受けする様に考え・投稿して来ました。
 
でも、皆さまからの投稿と比べると自分の事について全く触れていないと見直しました。。
 
そこで、今回はショウタロウの事を包み隠さず記してみようと考えました。
 
同じ様な、境遇の方やその予備群になっている方々に少しでも“気晴らし”になればと思います。

1.何故?難病に!!

私は、1995/4~大手日用品メーカーに入社しました。この年は、入社前に歴史に残る世相・災害・事件が多くありました。
まず、この会社に入る迄、今迄の先輩方の様な就職活動は、一変しました。皆さまご存じの通り“就職氷河期が始まったばかりでした。私は、工学部でしたが希望する業界からは「学卒」は要らない、資料請求しても貰えない事態になっておりました。それ迄は、理数系の学生は4年生の6月には、9割位は内定をもらい卒業研究に没頭する流れでしたが、大学教授の推薦も全く当てにならず、皆、個々に活動しなければならない状況でした。
8月になっても本学生の半分も就職先が決まらず、お金のある者は、大学院に行く者も多くいました。

私も成績上位で推薦で大学院へ行ける身分で教授・准教授(当時:助教授)から何度も誘われ、両親にも相談しましたが、金銭面で折り合いがつかず、両親からも「働け!!」と。
 
また卒業研究は、“自分が研究したいモノ”ではなく、教授の専門で研究室があり、クジ引きで決まった私自身からしてみれば、何の興味もない超音波装置を用いた研究室だった事も大きかった。

本来なら、熱力学のソーラーカー、宇宙工学のロケット、流体力学の応用等を希望しておりましたが、尽く誰もが嫌がる研究室に割り当てられたのです。悲しい事にメンバーも私以外、卒業研究だけ単位を取れば卒業出来る人は、おのず私独りで院生の先輩と研究をする時間が多かったのです。
 
でも私も、どうしても受講したい講義は出ました。そして本格的な就職活動に入り、実情を肌で感じ身に染みました。
8月夏休み中は、「就活優先」という学部からの通達で地方・都内で開催される就職セミナーに参加しまくりました。8月末にやっと2つの企業から内定をもらいましたが、総合職=営業職でした。
そして1995/1/17 朝起きてTVを付けたら「何処の国で、こんな戦争が始まったのか?」と目を疑う光景がLIVEで放送されていました。

いわゆる後の“阪神・淡路大震災”です。
関西出身の学生は、地元に帰り家族・親族・ボランティア活動優先の為、研究室を離れ、残ったメンバーが、研究発表に向けて追い込みをする大変、慌ただしい時期でした。
 
そして無事、研究発表会を終え卒業が、決まった数日後 3/20都内の地下鉄で「何か?」が発生し、多くの方々が、道路に横たわり無数の救急車・消防車・パトカーと関係者が、忙しそうにしているニュースが、流れて来ました。これもいわゆる後の“地下鉄サリン事件”です。5日後、東京武道館で卒業式をする予定でした。史上最悪の日本で起きたテロ事件です



 当日は、雨で武道館には入れず、他の学部の教室内で卒業証書を配られてあっけなく終了。
その後は、就職先の内示から広島へ行く準備の為、下宿の整理。業者への根回しをして実家に帰省しました。

4/1に五反田TOCビル内で入社式に出席。バスに乗って新人研修の場所へ。日々レポート提出やミーティングがありました。

でも私は、一番上の兄が4/2に結婚式・披露宴、一週間後に次の兄が結婚式・披露宴。2週間の新人研修は、あっという間に終わり、辞令が出て「広島支店」へ。他の人は、皆同期と違う支店に。私ともう一人「仙台支店」の辞令を受けた同期が“独り”で配属されました。


私の学生時代の卒業~就職の話だけになってしまいましたが、長々続くので今回は、ここ迄とさせて頂きます。続きをお楽しみにして頂けると幸いです。                   「W」より


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