「難病と共に生きる:日々の小さな幸せを見つけた私の方法」つづき
~ショウタロウのココロ~
関東圏でも北関東:茨城県のド田舎で生まれ育った私「W」には、広島弁はとても怖く響き、周りの人々の声が、全て怒ってしゃべっている様に感じておりました。
当時の広島支店は、広島・岡山・四国営業所の3営業所と山口・山陰(島根県・鳥取県)出張所があり、四国営業所の方々は、各県に住んで営業所自体には、必要な際に集まって活動している状況でした。毎月、月初めの金曜日に支店会議があり、重点項目の進捗チェックや課題・問題に対するアクション、その結果報告、全社からの通達・徹底事項等さまざまな重要な事を営業メンバーに徹底する場であり、経営目標未達の方や鈍化している方を詰めるとても怖い場でもありました。※現在に当たる:パワハラ・モラハラ・言い表せないハラスメントが横行しておりました。
理系の私は、ランチェスター戦略やドラッカー経営など全く分からず、興味も無かったので自分に必要な知識が、「何が必要なのか?」も分からなかったのです。
この体質を自分なりに体育会系のノリとして捉え、年長・小・中・高と剣道部、大学は合気道部だったので、疑う余地もなく受け入れ、経済や法を学んだ方々が多い営業畑は、「こういうモノ」なのだと思い、ずっとこのスタンスが標準なのだと理解しておりました。
※現在では、考えられない状況の中に身を置いていた事は、皆さまお察し下さい。
殆どのメンバーは、関西以西の方々で標準語で話すと特に、お得意先様の方々によく“イジメ”られました。
社内でも支店長・課長も強面で発言の厳しい方でした。
また、私の一つ上の先輩が広島に来て約半年で辞めた事で「今年の奴は、絶対に辞めさせるな!!」と箝口令が敷かれていた事を後に教えてくれた方がいました。
私が、広島支店に来て初日に同道して行った事は、島根県益田市での作業の手伝い・商談の見学でした。
次の日は、お得意先様の訃報にて会社代表として香典とご焼香をあげる役目を任されました。
何が何だか?全くわからない状況で先輩方に聞きまくり、罵声を浴びながらこなすのが精一杯でした。
6月~営業車でお得意先様を廻る様になり、私はコラムシフトのバンが社用車でした。
そんな矢先、10年務めた方が、義実家の跡継ぎになると辞めて行きました。この方は、常に売上達成されていた方でした。同じ関西弁でも穏やかで優しさを感じる口調の方でした。
7月中旬、月曜の朝礼でラジオ体操後、支店長の訓示が話されている際、私は急に倒れました。正直、覚えておりません。その日は、救急車で運ばれ大事を取る様に言われましたが次の日には、出社してました。
兎に角、毎日、朝は早ければ6:30~0:00を廻ってもメンバー皆さんが、必死で働いておりました。
私は、若さ故無理している自身の躰に鞭打って何とか?目標数字の達成を目指している日々でした。
それ迄に、広島営業所メンバーの皆さまと同道して、各担当のお得意様や先輩方の営業スキルなどを見聞きして質問やお得意様にも「新入社員」として認知されてました。
近所に大口のお取引様があり、救急車が来た際「とうとう出たか」と噂話は、あっという間に広がりました。
それから一年半後、本来なら4月に異動があるのですが、10月、支店長から「岡山営業所へ」と言われ 半年後に「山陰エリアへ岡山から通え」と。
それ迄、山陰は出張所だったのに。私が担当する時から・・・。何故?どうして? 経費削減と。
私は、テスト生だったんです。出来るか?否か?勿論、担当を外れ後々になって・・・真実がわかりました。
毎週、月曜の早朝に営業所を出て金曜日に岡山に戻り、事務処理。
土日は潰れる事は日常茶飯事。
自己成長の勉強なんて考えられる状態ではありません。そして又、月曜日になって山陰に向かう。
島根・鳥取のお得様は、全て自分が担当。何か?起きれば、即私に電話が来ます。自分がヘマをしなくても商品の欠品、物流の遅延、クレーム品の対応、お得意先様のオープン準備等々。
日々クタクタになって宿に戻るとノートパソコンとインクジェットのプリンターで企画書・報告書・メール・商品確保一覧のメンテナンス。誰も傍にいません。上長との電話でヒアリングは日々。
山陰は人口は少ない割に長細く全ての得意先様には、とても回れません。もっと早く「選択と集中」という戦略を知っていればと・・・。これも担当を外れ後々にわかる事でした・・・。
2年後、今度は「福岡支店へ」と福岡営業所は、大所帯で3グループあり、他に熊本・鹿児島営業所と長崎・大分・宮崎は出張所(住込み)の支店。私は、これ迄の経験から九州の各県に支社のある大口のお取引様本社・福岡・久留米・佐賀支社と2・3番目のお取引様、その他多くの物流センターを担当しました。
前任の引継ぎ書もなく、前任の同道もない中で、直の上長と同道しながら聞いた事だけで任されました。でも何とか毎月、経営目標100%を達成し続けました。
1999年末、「ミレミアム問題」が浮上。最終消費者の皆さまに大震災時に起きた商品不足の事態を避けるよう担当する全お得意先様に対して在庫を持ってもらい商品供給が、滞らない様にすると全社通達が発令され、私も経験者として各お取引様の実績推移と「もし?PCが使えなくなっても人力で商品を店頭に!」と予測値や計画納品を提案し、説得して廻りました。
2000年を迎えて。不測の事態は、起きず取り越し苦労化した頃。1/14朝、お得意先へ直行した私は、社用車内で酷い目眩・吐き気を感じ、「仕事出来ない」と判断。何とか事故らず営業所に戻りましたが、降りる事さえ出来ず、携帯電話で敷地内で上長に連絡、降ろしてもらい即、病院へ入院しました。
そこから数日しても良くならず、転院を促され大きな病院へ転院。その朝の診察から記憶が全くありません。現在2024年10月。今でも何があったのか?全くわかりません。只、働ける躰でなくなって家族に大変な迷惑をかけながら生かされているのです。
2001年3月に復職しましたが、当時の上司のパワハラ・モラハラは本当に厳しいモノでした。2004年に抱えた病が再燃し、1年後、国指定特定疾患難病と精神障害者2級となり、2015年1月末で強制解雇。
そこから紆余曲折あり、今こうして「W」の事を記してます。
つづく