「憎悪」と「嫉妬」は、どちらが"よりネガティブ"なのか
「プラスの効果」がまったく期待出来ない感情
今回は、曹洞宗・永平寺で約20年におよぶ修行を積ん出来た禅僧の南直哉さん「永平寺は巨大組織なので、ある意味では一般の大企業と同じ。部下は動かないし、上司は話が通じない。日々イライラする事もあれば、怒りが収まらない事も起こりました」と振り返ります。
心安らかに暮らす為には、そうした「感情の波」から一旦降りる事が大切さだと説く南さんが、とりわけ厄介な「2つの感情」について紹介します。
時には、感情が揺らぎ、大きく波立ったとしても、その流れを一旦自分で切る事が出来る。私が身をもってそう知ったのは、永平寺の役寮時代でした。
曹洞宗の総本山である永平寺は、大勢の僧侶が所属する巨大組織です。僧侶の集団と云えど、役職が決められ序列がハッキリしています。その意味では、一般の大企業と同じです。部下は動かないし、上司は話が通じません。日々イライラする事もあれば、時には、怒りが収まらない事も起こります。
しかし、我々禅僧には坐禅があります。日課の坐禅によって感情や思考が一旦遮断されると、自然に意識がクールダウンし、状況を新しい視点で捉え直す事が出来ます。
「部下が失敗したのは、自分の指示が悪かったのかもしれない」
「そもそも初めから、失敗しても仕方がないと思って任せたのではないか?」
どんなに腹が立っていても、坐禅後はそう思い直し、自分がどう動けばいいのか、次の展開が見える事がよくありました。
思考や感情の波に巻き込まれたまま、物事を考えても意味はありません。感情の流れを切る事が、習慣として身につけられるかどうか。「不動心」を育む為には、これが外せません。
しかし、頭で渦巻いている感情や思考は、自分の意志で止めようと思って止まるものではありません。感情や思考の動きを沈静化させ、意識の方向を切り換える為には、体のほうから感情をコントロールするテクニックが必要なのです。
「単調な肉体労働」を繰り返すと感情の起伏が収まる
僧侶としては、まず坐禅をおススメします。一定の指導と訓練が必要ですから、興味があれば坐禅指導をする寺院に足を運んでみるといいでしょう。それが難しいようなら、日常生活の中で思考や感情を一旦遮断して、クールダウンする気軽なやり方もあります。
感情から一旦降りて、「平場(ひらば)」に戻す方法です。
例えば、散歩する、昔の愛読書を読む、お茶をじっくり味わう。食事をひとりで味わって食べる、肌の感覚に意識を向けながらお風呂に入る。そういった事を行うと、思考や感情の揺れが静まります。心がざわざわする時は、昔のアルバムを見ると話す女性もいました。
意外かもしれませんが、草むしりや雪かきなどの単純労働も役立ちます。単調な肉体労働を繰り返すと感情の起伏が収まり、クールダウンし易いのです。
ある人が「お寺にお参りすると心が落ち着くので、感情をリセット出来る気がします」と言いました。確かに、寺社参りはもともと日常から離脱するという側面を持っていました。しかし、「パワー」や「御利益」をもらい、「癒やされ」に行く参拝であれば、要するに「取引」です。何か「いい事」を当てこんでする行為では、クールダウンにはなりません。
クールダウンは、「気分転換」や「リフレッシュ」とは違います。それは、考える前の助走のようなもの。一旦場をならして、次の試合の為のグラウンド整備をするようなものです。
ですから、クールダウンは、新たな刺激がなく、日常的に出来る事に限ります。温泉や旅行に出かけたりすると感情をリセット出来そうですが、非日常の刺激はこの場合不向きです。また、ワクワクしたり興奮したりする事もおススメ出来ません。昔の愛読書といっても、胸躍るような冒険小説やファンタジーではダメです。淡々と読める短編集や絵本がいいでしょう。
散歩や入浴、お茶や食事などでクールダウンする時は、五感に集中する事が大切です。
今挙げたものにかぎらず、最終的に自分に合った方法を探せばいいのですが、押さえておくべき点が2つあります。物理的にひとりになる事。そして、あまり動かずに出来る事です。
この技術は普段から準備していないと、イザという時に使えません。また、暫くやらないと必ず錆びつきます。習慣として、日常の中に組み込んでおくといいでしょう。
坐禅同様、これも技術として身につけていく為には、一定の訓練が要ります。しかし、試してみる価値、自分のものにする価値はあるはずです。
怒りは、何も解決しない
ある老師が、以前こんな事を言いました。
「直哉、俺も90歳を過ぎて、だいたいの事は解脱(げだつ/煩悩から脱する事)したと思っていた。もう、うまいものを食べたいとも思わないし、女に惚れる事もない。だけどな、怒るのだけはダメだった。この歳になっても頭にくるんだよ。怒りからは解脱出来ない。仏の道は遠いな」
念の為に言うと、老師が「頭にくる」のは個人的な事ではありません。この老師は、寺で戦災孤児の救済活動をするなど、ボランティアの草分けのような活動を続けた人です。
彼の怒りは、社会的な問題や悲惨な状況にある人たちに対して、世間があまりにも無関心だという事に向けられたものです。老師にとってこの怒りは重要な意味があり、また、これまでの活動を支える大事なエネルギーにもなってきたのでしょう。
そんな「怒り」であれば、捨てる必要はないと私は思います。その感情が激した時に、心の枠の中からこぼれないようにすればいいだけの話です。しかし一般的に見れば、怒りが、手こずる感情のひとつであるのは間違いありません。なにしろ、90歳の禅僧まで、捨てられないと言ったのですから。
「もう怒らないと決めたのに、小さな事で部下を叱ってしまうのです」
「パートナーの言動に腹が立ち、怒りが溜まっていつもイライラしています」
こんな悩みをよく聞きます。ついカッとなってしまうのは、「怒ればなんとかなる」といった妙な思い込みがあるからです。
冷静になれば、いくら怒鳴っても、相手は畏縮するか反発するだけだとわかるでしょう。
怒る行為に効用があるとしたら、ただひとつ。「問題がここにある」と過激に指摘する事だけです。
しかし、怒りにまかせて問題を指摘したところで、相手は決して納得しません。また、問題が解決する事もありません。
もし、誰かがあなたに怒りをぶつけてきた時は、「この人はなんの問題を指摘しているのだろう」と考えれば、それで十分です。
例えば、上司が「結論から言いなさい!」と部下を叱ったとします。それは、「報告がまわりくどい」と問題を指摘しただけです。だから、叱られたほうは、次からは、端的に現状報告すればいいわけです。短気な上司がどんなに激昂しても、「この人は、怒れば問題が解決すると思っているのだな」と、指摘された問題だけ捉えて、余計な怒りは受け流せばいいのです。
そもそも人が怒るのは、「自分が正しい」と信じているからです。しかし、その「正しい事」すら曖昧なものであって、変化するものです。それがわかっていれば、一時的にムッとする事があっても、さほど激しい怒りにはならないはずです。
「自分の言っている事はどんな場合も正しい」と思い込むのは、仏教からもっとも遠い感情です。だから、「怒る」行為をとても嫌います。苦しみを生み、悟りを妨げる3つの毒「三毒(さんどく/貪、瞋、痴=貪り、怒り、愚かさ)のひとつに数えられるほどです。
「あっ、また怒ってしまった」と思った時点で、もう一度本当に自分が正しいのか、再検討する余地があると考えてください。およそ物事は、ある一定の条件でしか成立していません。怒りに翻弄されたくなかったら、この考え方を頭にたたき込んでおいたほうがいいでしょう。
ちなみに、当座の怒りを鎮めるには、怒りの相手から物理的に離れる事をおススメします。また、立っているのではなく、床に直接座ってしまう事が効果的です(椅子よりはるかに効果的)。
苦しい嫉妬は、錯覚が生んだ感情にすぎない
怒りと同じく、嫉妬にも人間は煩わされるものです。憧れや羨望なら、「あんなふうになりたい。なれればいいのにな」で終わります。
一方、嫉妬が生まれるのは、「本来、自分が持つはずだったものを人が持っている」と勘違いした時です。本当は、自分がそうなるべきだった状況を他人に奪われた。そう錯覚するから激するのです。
嫉妬の根っこにあるのは所有欲であり、「自分のもののはずなのに、不当にも奪われている」感覚です。
たとえば、ほとんどの会社員は、スティーブ・ジョブズや孫正義には嫉妬しないでしょう。また、いくら野球が好きでも、大谷翔平に嫉妬する人はいないはずです。
普通の人間は彼らと同じ土俵にいないので、憧れはあったとしても嫉妬にはなりません。交際相手が「自分に向けるべき愛情」を人に向けていると思うから、また競争相手が「自分が得るはずだったポスト」に先についたから、嫉妬するわけです。
もし出世競争で負けても、相手を真のライバルだと思っていたら、そこには尊敬があるので嫉妬の対象にはなりません。自分もさらに精進しようと思うだけです。嫉妬は、感情の中でもっともプラスの作用を生まないものです。
ある意味、憎悪より性質が悪いのが嫉妬
憧れや羨望は「自分もあの人のようになりたい」となり、能動的な行動につながる場合があります。しかし嫉妬は、「不当にも奪われている」という感覚で止まってしまい、能動的な行動になりません。ある意味、憎悪より性質(たち)が悪いと言えるでしょう。
憎悪は人を行動に駆り立てるモチベーションになり、場合によってはいい結果をもたらすかもしれませんが、嫉妬は人を疲弊させるだけです。そこからリアクションしても、プラス効果はまったく期待出来ません。
嫉妬に飲み込まれている時には、そこに、「勘違いした所有欲」があると気づく必要があります。
そうしないと、嫉妬から解放される事はありません。誰かに嫉妬した時は、その状況が本当に不当なのかと考えてみてください。たいていの場合は、実力どおりの事が起きているだけです。
「そのポストには自分がふさわしい」と考えていたかもしれないが、人事課はそうではなかった。「彼女は自分を好きになるべきだ」と思っていたかもしれないが、彼女自身は別の相手のほうがよかった。
本人は不当だと思っていても、冷静に見てみれば不当でもないのです。自分の認識自体に錯覚があっただけ。嫉妬から解放されるには、それが理解出来るかどうかです。
そこに気づけば、嫉妬は無駄な感情だと一発でわかります。これが嫉妬の呪縛から逃れる第一歩です。 以上
今回の“教え”は、やはり全ての人に共通する「感情」・「意識」・「行動」であると思います。私自身、まさに今の今迄、様々な事に「憎悪」「嫉妬」を感じておりました。冷静に考えれば自分の考え・行動が、愚かであり自省する事が多いです。前回もお伝えしましたが、考えて行動した結果が、全く出ない日々をずっと繰り返しております。そこで湧き上がる「憎悪」「嫉妬」は、私は「諦める」事で逃げていたと思います。どちらも今回紹介された事例ほどの事ではありません。それは、私と自身が生活困窮者であり、難病・障害者と「諦める事」がたやすく、他の方々には「かなわない」と思い込んでいたからです。
「ありがとう」を1日3000回という教えを知り、身近な方々には、意識して「ありがとう」を言う様にしております。多様性の時代・価値観の相違の世の中ですから、特に就職氷河期世代の方々は、日々イライラしたり強いストレスを感じても吐き出す手段が分からず、お酒やイジイジと根に持っていたりする場面が、多いと思います。そんな精神状態では、健康に大きく害を及ぼしますから、今回の教えを参考に「クールダウン」出来る事を各々見つけ、ご自身に合って続けられる方法を実践されてみてはいかがでしょうか?
私は、「学び」と「体力」向上にもなる散歩やこれまでの学んだ事をただ、無心になってやり続けて行こうと考えております。 以上
今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。 「W」より