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細川幽斎の和歌を称賛したい審神者

風流な人間になりたい。その第一歩で、とりあえずと手に取った本の中で細川幽斎の歌の批評がされていた。

普通、幽斎の和歌や歌論は、独創性に乏しく、種々な面で中世和歌を総括し、近世和歌への橋渡し的な役割をもっているとされる。
(中略)
家集『衆妙集』をみても、特に目をひく歌は乏しい。

『和歌史 万葉から現代短歌まで』P167

実隆などに比較すると、レベルの低さは隠しようがない。

同P168


さらに、二冊目に読んだ武将版百人一首のような本で、本阿弥光悦が幽斎の和歌を下手と書いていたことを知る。

光悦は「歌を愛すると武が弱くなる」という考えを持ち、例として幽斎を挙げ「歌が下手でも家を興した」と評価しているらしい。

なるほどプロの目から見たらそうなのだろう。幽斎の和歌は至らない点が多いのかもしれない。

しかし、細川の刀を初期刀に選んだ身として、細川の刀を第一部隊隊長にしている身としては細川幽斎の和歌は肯定したい!
でも幽斎の和歌、何も知らないし、そもそも幽斎の和歌以前に古文とか歌風とかも全然知らない!

勉強するしかないと決意し、素人なりに本を読んだ。
幽斎の和歌について知ったこと、思ったことを述べていく。



秀吉関連の和歌


幽斎の歌集『衆妙集』には、主君秀吉ついての和歌や、秀吉とやりとりした和歌についても見ることができる。

君がため花の錦を敷島ややまと島ねもなびく霞に
(この吉野山は君(秀吉公)のために花の錦を一面に敷いている。春の霞がたなびいている中に。 そして殿下の御意向によって日本全土にたなびいていることよ。)

秀吉以外にも前主君・信長を賛美する和歌だったり、その前の主君足利義昭を案じる歌もある。
幽斎は、本能寺の変直後に出家していたことを思い出す。人から自分がどう見られるか分かっているし、世渡りの上手い人だなと思ったけど、その世渡りの上手さが和歌からも感じ取れる。


次に秀吉との和歌のやりとりについて見ていく。
素人目で見ると、秀吉が詠んだ和歌は「それ、どう返せばいいの?」と思ってしまうものだ。


秀吉 
月に散るみぎりの庭の初雪をながめしままに更くる夜半かな
(月光をうけつつ散り来る、軒下の敷石に続く庭の初雪を眺めているうちに、ふけてしまった夜だなあ。)

「和歌じゃなくてもいい」って言われても、どう返すのが正解か考えまくって、結局「そうですね」しか返せなそう。私だったら。

この和歌に幽斎はどう返すか。

幽斎の返歌
月に散る花とや見まし吹く風もをさまる庭の初雪の空
(月光を受けつつ散る花として見ましょうか。吹く風もおさまる静かな庭の初雪の空を。)


『文学全集』には「月に散る、初雪の庭を受けて、更に天下太平の祝意を持たせて巧みにまとめている」とある。
「吹く風もをさまる」で乱世が終わったことを言ってるのか。上手すぎる。

幽斎が綺麗に返してくれるからいいものの、これより更に返しづらいのが、天正20年(1592)正月に詠まれた歌。

秀吉
なき人のかたみに涙残し置きて行くへ知らずに消え果つるかな
(亡児がその形見として涙を残しておいて、行方も知らず消えてしまった。)


夢に昨年亡くした鶴松が出てきたのだ。
子どもを亡くした親の悲痛を思うと、辛いし、返す言葉もない。
聞くだけで辛いこの和歌だが、秀吉は幽斎に対して「この歌の返しをせよ」と言うのである。

和歌を言われたら和歌で返すのが礼儀なんだろうが、あまりにも無茶なことを言っている。

しかし、そこは幽斎である。

返歌
惜しからぬ身を幻となすならば涙の玉の行くへ尋ねん
(惜しくもないわが身を幻術士となすならば、涙の玉を流させた若君の魂の行方を尋ねましょうのに。)

秀吉の思いに寄り添いつつ、涙の玉と魂をかける技術を見せる和歌を返した。

さらに、返歌の包み紙には「御詠拝見仕、及なきわたくしさまのものまで涙の袖雨よりまさり候、さてさてをしからぬ老の身をまぼろしとなしても若君様の玉のありかをたづねまほしき心の底をいささか申のべ候」としたためたらしい。

気遣いの人すぎる。


京極派の影響を受けている和歌

幽斎の和歌には、京極派の影響を強く受けたものが複数ある。
京極派の和歌は、他では中々みない題材(虫や犬等)で詠んだり、「むらむら」といったような独特な言葉を使用する特徴がある。また、あらゆるものに「心」を見出だした和歌も多い。


鶯の来鳴くみぎりの夕日影むらむらなびく窓の呉竹
(鶯が来て鳴く敷石の辺に夕日の光がさしている。そこに窓の傍らの一群の呉竹がなびいていることよ。)

あと、学が無さすぎて訳すことができないのだが、京極派の影響を受けていると思われる和歌を紹介する。

むしの音を猶聞きあかでねぬるよの夢をはかなみさそひてぞ鳴く

よし野山はなの心もおくみえてちる桜あれば又ぞ咲きそふ


京極派についてもう少し。

鎌倉時代後期の歌人・京極為兼は、昨今の和歌を形式張っているとし、もっと「心のおもむくままに」「見た事、思う事を自由な言葉で正確に」詠むべきだとした。

ただ、前衛的すぎたのか、ライバルで昔ながらの歌風を尊重する二条派歌人からは強く非難され、京極派と二条派は何度も諍いを起こした。

そして京極派は観応の擾乱を境に衰滅。
『玉葉和歌集』や『風雅和歌集』といった勅撰和歌集を残したものの、長い間日の目を見なかった。

幽斎の生きた時代、京極派は既に過去の遺物で、賛同者も少なかったはずだ。
にも関わらず、自分が良いと思ったものは吸収するその姿勢、尊敬しかない。


個人的に気になった和歌

ちりぬべき時にいたればさそへともいふばかりなる花の下風

細川ガラシャ辞世の句「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」を思わせる一句。

幽斎の正室は、ガラシャの自害に影響され、翌年洗礼している。
幽斎も影響を受けたのだろうか。それとも「散りぬべき時」という言葉は、この時期に多用されていたのだろうか。

無知すぎて何もわからない。明治書院、早く『衆妙集』を刊行してくれ。『風雅和歌集』もよろしく。

そして、慶長5年(1600)、弟子の烏丸光広に和歌の草紙の箱を進上した時の和歌も心に残った。


もしほ草かき集めたる跡とめて昔に返せ和歌の浦波
(さまざまな和歌を書き集めた筆の跡を追い究めて、昔の盛んであった時のように、和歌を復興してほしい。)

先程、「幽斎は京極派の影響を受けた」と書いたが、二条派の歌風についても勿論学んだ上でのことだろうと思う。
ただ、この和歌は、京極派のことも言ってくれてると嬉しいなと個人的に考えている。

京極派が一般的に評価されるようになるのは、折口信夫や三島由紀夫の頃なのだが、この再評価には幽斎の尽力もあったと思いたい。



神野志隆光ほか『和歌史 万葉から現代短歌まで』和泉書院 1985年

綿貫豊昭『戦国武将の歌』笠間書院 2011年 P79

『新編日本古典文学全集49』小学館 2000年

『新編国歌大観 第9巻』角川書店 1991年

岩佐美代子『永福町院百番自歌合全釈』(解説) 風間書房 2003年

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