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小説「パンゲア紀行文」弐

『草鞋履く』

夜は更けた。風の吹かぬ静かな夜だった。
時刻は日の出の少し前。積荷をまとめてリアカーを動かした。次にここに来るときは、僕はどんな形をしているのだろうか。塵か、砂か、水か…少なくとも、今生は戻ることはないだろうと思うと、どうもこの景色を目に焼き付けておかねば気が済まない。
まだ夜にその身をやつす空気を吸いながら、
そんな壮大な思考をめぐらして、
まだ音の無い街を行く。

とろとろと進み、かの男(あの図書館で知り合った、年の離れた大柄の男。)の家にたどり着いた。
家から物音がしないのを鑑みるに、まだ怠惰な夢の中にいるらしい。
申し訳程度のノックを数回。ドアノブに手を回すと鍵は開いている。まったくもって不用心。
彼は、自分が大柄で厳つく見えるということを自覚しているから、俺のことを襲う奴なんざぁいないだろうという気でいるのだと、つい最近聞いたことを思い出したので。

開けて入り、呼びかける。
「アランティ、起きてください。僕一人でいっちゃいますよ。」
彼の家は思いの外整頓されている様子であったが、ちょっとした戸棚の上、人の頭ほどの小窓の淵、あるいは無造作に廊下に転がる、古びたスーツケースの上など、至る所に埃が降り積もっているので、掃除はされていないようだ。この家は、少々一人暮らしにしては大きすぎるようで、確かに掃除は面倒くさそうだった。
そんなこんなで右往左往。
部屋数が想像の数倍は多いせいで、寝室がどこかわからない…。以前は誰かと暮らしていたのだろうか。そう思いつつ「起きろ、起きろ」と、
呼びかけも虚しく物音も無く。
そんなこんなで、しばらくあちこちを探していると、リビングですやすやと寝ているのが目に入った。あんぐりと大口を開け、ぶらぶらと体をくねらせて眠っているのがあまりにも気持ちが良さそうなものだから、正直、ちょっと羨ましかった。
はて、どうやって起こしてやろうかと思案していると、呼吸の乱れや寝返りなど、なんの前触れもなく、彼はぱちりと目を開けた。大柄で厳つい見た目と、その力が抜けてしまいそうな仕草との
間にはどこかシュルレアリスムを感じさせるものがある。
僕はぼんやりとそう思った。
家を出る時に感じたあの壮大な感覚はどこへ行ったのやら。目を開けてすぐ、僕に気がついたアランティが、ただでさえ大きな身体をこれでもかというほど、ううん、ううんと伸ばしながら口を開く。
「早すぎだろぉ。」
彼は僕が勝手に家に入っていることにはまったくもって無頓着らしい。
突っ込もうと思ったけれども、言い返したい気持ちが勝ったので、
「あんたが日の出と同時に出るぞって言うから来たんでしょうが。」
僕は正論で彼を殴る。

「大丈夫、3分もあれば家を出れる。」

「飯はどうするんすか?」

「行きながら食べる。ちょっとだけパン余ってるけど、食う?」

「朝飯食ってきたんで大丈夫です。」

「やるやん、ソロン。早起きだぁ。」

いつも通り(といっても知り合ったのはまだ5月、つまり一ヶ月ほど前であるのだが)、茶番めいた空気が流れだす。
別に急ぐ必要もないのだが、なんとなくこれまでの態度に苛立ちを覚えたので、その鬱憤を晴らすべく、起きろ、起きろと、僕は彼を急かす。
彼はごにょごにょ何か悪態を吐きながら、
のそのそと起き上がった。

そうして、アランティは結局、3分では身支度を終わらせられず、5分程で済ませた。いや、それでも速い身支度だ。
そしてそして。
ようやっと、我々は出発した。

「まずは、国境を越えようか。せっかく一緒に旅に出たんだ。超えるまでは、我ら一蓮托生の二人旅だぁ。」
太陽の光にほんのり煌めく空気を深く吸って、アランティは言った。

「僕は、ここから真っ直ぐ南下して超えるつもりですが、どうですか。」

「俺も南下して越えることにしよう。その後は、各々気の赴く方向に征こうじゃぁないか。」

続けて言った。

「こうして出会えた縁があるんだ。もしかすると、国を出た後にも、またいつかバッタリ会うかも知れないなぁ。」

「会うとしたら、何十年後になるんですかね。」

明るみ始めた空を眺めて、ぼんやりと話に相槌を打つ。先程の茶番めいた空気はとうに失せ、また家を出る時の壮大な感覚が己を支配し始めている。パンゲアを征く旅人たちは皆、今も昔も一貫してこのどうしようく溢れ出続ける浪漫の心に突き動かされ続けているのだろう。ポツポツと人が歩き始めた今日の街道は、どこかいつもと違って見えた。

……つづく



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