最近面白かったこと②
前回のnoteの投稿で、久しぶりに文章を書いたらすごく楽しかった。時間を忘れて書いていた。ただ、時間を忘れて書いたのにうまく書けなかった。
時間を忘れることをフロー状態というらしい。ゾーンに入るというのもこれに近いらしい。つまりゾーンに入ったのに、僕の場合は、全く能力が上がっていなかったのだ。ただ、楽しいだけであった。ボールが止まって視えていたのに、僕のスイングはボテボテのピッチャーゴロだった。「文章力」というスイングスピードを上げるためにも、書かない時間があるとダメだと思い、取り急ぎ書き候。
背徳感のある生活
最近やることが多い。生活の中に、普段存在しない「締切」があったりする。怠惰な日常に「締切」という概念が、ひとたび登場すると、やる気が漲るどころか、逆に、別のことをしてしまう。皆さんも経験があると思う。
ただ、「わかっちゃいるけど別のことをする」という、この背徳感にはたまらない魅力がある。もはや、悪魔的とも言える。
「締切」や「やらなきゃいけないこと」は、あの「背徳感」を得るために存在する気配すらある。
もうすぐ、家を出るとわかっているのに、ついなにかを始めてしまったり、子どもの頃で言えば、夏休みなんて、そもそも背徳感を楽しませるために文部科学省が定めた期間なのかもしれない。
やることがあればあるほど、別のことをやってしまい、「こんなことやってる場合じゃないのに」という状況になる。だがそれでいい。むしろ、それがいい。
最近見て面白かった動画について書く。
1.「パクチー大原 【イノシシ狩り】タンパク質を補給できるようになった」(YouTubeより)
このパクチー大原という方は、脱サラして山奥で暮らすマッチョだ。島根県の山奥に古民家を借りて「筋トレ村」というゲストハウスを作り運営する男である。その生活の様子をYouTubeにアップしている。そして、収益などが貯まったら、海外を旅して、動画をアップしている。
僕にはずっと、トルコに行く夢がある。パクチー大原のYouTubeチャンネルに出会ったのは、彼がトルコを回っている様子をアップしていたからだ。
ただ、最近は、ずっと見ていなかった。しかし、やることがある僕は、「今、パクチー大原は何をしているのか」が気になってしょうがなくなった。ああ、なんたる背徳感だろうか。
久しぶりに動画を見てみると、昨年11月と12月頃の動画が大量にアップされていた。そこにはイノシシを捕まえる動画があった。
遡って見ていくと、どうやらイノシシが畑を荒らすようで、罠を仕掛けて捕まえようとしていたらしい。
コメント欄では、有識者の方たちが、パクチー大原に対して、自然の厳しさを説いていた。
「野生のイノシシは警戒心が強く、猟師の方でも、初めてでは捕まえられないとおっしゃってました」など否定的なコメントが多数あった。
そして、次の動画で、簡単にイノシシを捕獲しているパクチー大原。
期待をいい意味で裏切ってくれるパクチー大原。
しかし、その動画のコメント欄では、またもや有識者たちが「野生のイノシシは、仲間が捕えられると、さらに警戒心を強くしますので、同じ罠には絶対にかかりません」などと、否定的なコメントが多数書き込まれている。
そして、次の動画。
イノシシを捕獲しているパクチー大原。サムネイルで満面の笑み。
結果、パクチー大原は、冬の間でイノシシを乱獲して、食い切れないほど捕まえていた。
コメント欄の否定的な意見を、いとも簡単に覆していて、痛快だった。
コメント欄というところに生息する「有⭐︎識⭐︎者」とは、一体どういう生き物なんだろうか。何かを穿った目で見ないと自分を保てないのだろうか。否定的な方向の未来にベッドして、そうなることを望んでいるのようにも思える。そして、悪い未来に結果が転んだ時に、待ってましたと言わんばかりに、マウントをとりたいのかもしれない。「口を出したい悲観主義の観察者」と言ったところだろうか。
僕は、あくまでもそういう方たちを否定する気はなく、そういうところが人間臭くて、魅力的で、好きだと思う。ただ、恥ずかしいから黙っときなよ、と思う時もある。
違う違う。そんなことはどうでもいい。僕が面白かったのはパクチー大原が初めて捕まえたイノシシをモザイクなし解体している動画だ。(初めての動画以外では解体シーンがカットされている)
これは衝撃的だ。人によっては嫌悪感があると思う。
ただ、東野幸治さんが「カリギュラ」という番組で鹿を捕まえていた時のように、つい見入ってしまう、何かがある。その何かを僕の拙い文章で再構成してみる。
まず、パクチー大原が、罠にかかって身動きが取れない野生のイノシシを、「ホグホグ」「ホガホガ」という愛称で呼びながら近づいていく。この時点でかなり猟奇的だ。まぁ、猟だから、猟奇的でいいのかもしれない。ある意味では、猟奇的でなければ「命」は奪えないのかもしれない。大原が逃げようとする小型のイノシシをクビをつかんで上から押さえつける。イノシシは断末魔の叫びを上げる。もはや「ホグホグ」なんてかわいい声ではなく、つんざく様な「ピエエエエエ」という音である。そして檻の中への生捕りに成功する。
ただ飼うにしては大きいとのことで、食べることに。この切り替えも早い。
大原はハンカチのような手軽さで、トンカチを手に持っている。そしてそのトンカチを振りかぶり、イノシシの頭蓋を、かこんと叩きつける。一度目の衝撃で、失神するイノシシ。ぐったりとしたイノシシを檻から出し、ダメ押しの二発目。音が高い。見ているこちらの頭蓋骨にも何かが響く。
そして、血抜きをするために、大原がイノシシの首をナイフで切る。国語の教科書で読んだ「高瀬舟」でしか知らない「ひゅうひゅう」という息が漏れる音がする。ここになって視聴者の僕としては、やっぱり可哀想だし、見てて辛い。残酷だと思ってしまう。生き物がただの物になっていく、その一部始終が、時間と鮮血と共に流れてゆく。
イノシシを水につけて、血抜きをした後、皮を剥ぎ、内臓を取り出す動画に切り替わる。ここからは、イノシシがスーパーでよく見る豚肉の形に切り分けられていく。
不思議なものでこのあたりから、先ほどまでの「生き物の命」を奪うという感傷は薄らいでいることに気付く。先程までの、見てて辛かった場面は、生きているものが死ぬところまであったことに気づく。
大原は元パーソナルトレーナーなので、イノシシの部位を解体しながら「脊柱起立筋=ロース」などと解説をしてくれる。残酷だなんて思っていた自分が嘘のように「なるほどな」なんて思いながら動画を見ている。そして、画面から目が離せなくなっている自分がいる。
この数分で、とんでもない感情の起伏である。
本来であれば、生き物の解体は格闘だ。大原も、慣れないことで時間がかかり、疲れたと言っていた。
解体は、その場にいれば、時間をかけて向き合うことである。独特な匂いもあるし、命そのもののもつ重さがそこに存在している。体力を削られる。命と命がぶつかり、時間をかけた格闘だからこそ、その果てに、命をいただくことへの責任や感謝が芽生えるのかもしれない。
それに対して、画面の前にいる、たった数分で屠殺から解体と直面しなければならない我々はなんだろうか。編集の偉大さは、やっぱりライトな肌触りしか残さない。この動画だけで、食べることへの感謝を十全に得られるわけではない。あくまでもそれは情報であって、本物の重量感や手触りがないからだ。この動画を見ることは、食べ物への感謝への「きっかけ」にはなるかもしれないが、命を奪うことへの「深い感謝」には繋がらない。
それは、何杯飲んでも酔わない、薄い酒に近いかもしれない。酔いによる肉体的な辛さは一切なく、我々をほろ酔い気分で、気持ちよくしてくれるだけの存在である。
それでも、僕にとってこの動画は見て良かったと思えた。それは単なる食べ物への感謝ではない。
僕は、この動画のおかげで、ものごとの裏には「時間や手間がかかっている」ということに改めて気づかされたからである。
生き物の命を頂くことの軽い感謝より、たくさんの人の手が加えられて、いま、自分の目の前に「モノ」があることに思いが至った。これは「ヒト」にも当てはまるかもしれない。当たり前のことなのに、忘れてしまっている。
あの動画から、「生き物への薄い感謝」だけを抽出して、ほろ酔い気分で気持ちよくなるのも結構だが、その裏に関わる「人・時間」に目をむけることの大事さに思い至った。
楽しいの裏には苦しいもある。すごい人にはすごくなるために裏側で編集されて、見えないようになっている時間があるはずだ。
自分の人生の裏には、かなり編集しなきゃならない、時間と手間があるようにしていきたい。
そして、焼肉が食べたい。
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