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駆け出しノート屋の創作モチベーションの話:「なんでノートなの?」に対する答え

こんにちは!NOTEBOOK LABO.のMKです。久しぶりの投稿です。
今回の記事では、なぜ私がノートを作っていきたいと考えたのか、それにはたくさんの理由があるのですが、その理由の一つについて書きたいと思います。
というのも、私は今芸術大学に通っているのですが、よく「なんで(作りたいものが)ノートなの?」と聞かれます。ノートが従来的な(ファイン)アートの領域にあるものではないので、そのように人から思われるのは当然だと思います。
こう聞かれたとき、よく回答に困ってしまうのですが、最近少し考えがまとまったので、備忘録としても書いておきたいと思います。

これについて話すにあたって、NOTEBOOK LABO.の商品、"NOT A PHOTOBOOK"シリーズの製作過程に触れさせてください。
"NOT A PHOTOBOOK"シリーズは、私がこれまで撮り溜めてきた写真を素材に製作されました。

長野の牧場で数年前に撮影した写真をもとに制作した「NOT A PHOTOBOOK No.001」

このシリーズを作っていて一番面白いなと感じるのは、以下に述べるようなことが起きているためです。

写真は、何かしらの製品(例えば、カレンダーやはがき、本の表紙、CDのジャケット, etc.)に印刷されている時、本来であればそれ自体がそれが印刷されている対象の装飾上の主役になります。つまり、写真自体が魅力的であるため、その写真の魅力にあやかって、ある対象を魅力的に見せるために対象に写真を印刷する、といった形で用いられることが多いと思います。そのため通常であれば、その写真が魅力的に見えるようなトリミングであったり、写真の周囲の余白の残し方を選択するのが、写真を利用したデザインを行う場面では多く用いられる手法であると思います。
しかしながら、NOT A PHOTO BOOKシリーズを作っているとき、写真はノートにとっての単なる「装飾」ではなく、ノートを構成しているもの、いわばノートの「身体」のように扱われます。例えば写真は、正確には写真が印刷された紙は、いろいろな位置において切断されます。ノートの幅方向・高さ方向のサイズに合わせて。そして上角は容赦なく斜めに切り落とされます。さらにはリングを通すための穴まで空けられます。また、写真が印刷されている部分と余白の割合のバランスを考慮した結果、写真の上下が逆さまにされたりすることもよくあります。そのため写真の上下左右は、ノートとして完成されたときのノートの上下左右とは必ずしも一致しません。

ローマ近郊の街で撮影した1枚の写真が、2冊のノートに分断されている。
左の方の表紙は、逆さまに置いている。

つまり写真は、ノートの形状やサイズに合わせて必要十分な大きさの紙を切り出す、といった観点である種機械的に切断されます。もちろん、100%機械的に切り出される訳ではなく、ノートとして完成した際の美観を考慮しながら切り出されはするのですが、それはあくまで「ノート」の美観であり、「写真」を見せるための考慮ではないのです。

写真の美観を保つための都合ではなく、ノートのための物質的な都合に従って、ある意味では形を強制され、方向すらも保たなくなった写真は、ノートの姿をとったとき、元の写真が表していたイメージから離れ、抽象絵画のような姿になります。

「NOT A PHOTOBOOK No.005」


「NOT A PHOTOBOOK No.003」

元々写真に写っていた牧場の草木や石畳の道は、一見しただけでは何なのかわからない、緑や濃紺の塊と化します。
しかし、そうして新しく立ち上るイメージが、非常に魅力的に映る瞬間が必ずあり、それをノートに閉じ込めたのが、NOT A PHOTO BOOKシリーズなのです。
そのようにして美しいノートが出来上がるとき、つまりノートという大量生産可能な、工業製品的な性質を持つ「モノ」の都合や規格によって強制的に作り出される「美」を実感するとき、ノートが私達にもたらしてくれる視覚的な喜びの可能性を感じます。絵画や彫刻などのいわゆるファイン・アートが与えてくれる視覚的な喜びとはまた異なる方法で、ノートは私達に喜びを与えてくれます。

以上のような理由で、私はノートによる視覚的な喜びは、芸術がもたらしてくれる美の一形態として、追求に値するものであると信じています!

今日はちょっと理屈っぽい話になってしまいましたので、次回はもう少しライトな話題にしたいと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!

では、また。

NOTEBOOK LABO.
店主MK


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