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地域建築のあり方の歴史整理と再評価


はじめに

これからの建築・都市の課題は何か。今日を生きる人々の消費動向と、情報環境を始めとする社会を支配しているアーキテクチャは強く結びついており、ネット空間が日常化している。では現代社会の実空間はいかにあるべきなのか。現代人のオンライン化した消費動向の整理を行なった上で、地域の建築のあり方について試考したい。

『動物化するポストモダン』

東浩紀/2001年


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哲学畑出身の批評家、東浩紀による現代日本文化論。コミック、アニメ、ゲームなどに耽溺する主に男性オタクの消費行動の変化から敷衍して、動物的な消費行動にまみれたポストモダン社会=現代の日本社会を読み解こうとする。

本書は3章構成からなり、第一章の「オタクたちの擬似日本」でオタク文化を語ることの重要性が企図され、オタクを3つの世代に分け、その概要を示すこと、そしてオタク系文化の展開を、日本国内だけでなく、むしろ世界的なポストモダン化の流れの中での理解を試みる。

第二章の「データベース的動物」では、各世代のオタクの消費形態の差異を具体的な事例を豊富に用いて説明する。ここで、本書の核となる「データベース消費モデル」が紹介される。オタク文化の大きな特徴である二次創作において、(二次創作とは、原作の漫画アニメゲームを主に性的に読み替えて制作され、売買される同人誌や同人ゲーム、同人フィギュアなどの総称である。

その市場は量的にも質的にもオタク系文化の中核を占め、大量の部数が動き数多くのプロの作家がそこから育っている。)美少女キャラの図像的なイメージが萌え要素としてデータベースに登録され、他の要素と組み合わせてシミュラークルとしてのキャラクターの再生産が可能になると説明しているが、象徴的なまでにオタク文化を秀逸に捉えている。

そして第三章では村上隆の「スーパーフラット」に通じる超平面性という言葉などを用いながらオタク文化よりも少し広げた」ポストモダン社会への言及を試みる。

オタク系文化から当時の日本社会の状況を論じる本書は、それまでに語られてきたオタク論を紹介した上で、シミュラークル(見かけ上の類似物を意味し、オタク文化における二次創作物)の作り手とその生成のメカニズム、そしてポストモダン期における人々の人間性を明らかにする。現代社会には、様々な物事に対しての「大きな共感」はもはや存在せず、オタク的な「小さい共感」への感心しかないと括られる。


『宝塚・やおい、愛の読み替え』

東園子/2019年


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 東浩紀の『動物化するポストモダン』をはじめ、2000年代初頭から影響力をもったオタク論は現在も効力を失っていないと思われるが、ほとんどが男性オタクを対象にしたものであった。これに対し、本書は宝塚、やおいなどを対象とし、女性のオタク文化愛好者とその構造に関する理論書である。

男性オタクたちは、データベースに登録された萌え要素を組み合わせて作られた、シミュラークルとしての美少女キャラクターの、主に図像的なイメージを対象に喜びを見出す傾向があった。

これに対し、女性オタクたちは「相関図消費」を行っているとしている。相関図消費とは、漫画やアニメ、演劇などのキャラクターの人物関係に着目し、二次創作を行う際にキャラクター同士の関係性を読みかえるというものである。メインの物語での主従関係を逆転させた主従萌えなど○○萌えという恋愛コードとキャラクターを掛け合わせた二次創作が行われる。

要するに彼女たちは妄想するのである。男性オタクが萌えキャラクターを図像的に消費するのに対し、女性オタクたちは妄想力によってパラレルな物語消費を楽しむのである。

いずれにせよキャラの二次創作や物語の読みかえは、現実世界に存在する人間の形質や性格、人間関係では不可能な二次創作に現代人の想像力が注ぎ込まれている現実世界では不可能な再生産性によってオタク文化が盛り上がっていることがわかる。

『思想地図vol.3 アーキテクチャ』

東浩紀,北田暁大編/2009年


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「アーキテクチャ」という概念を「建築」だけでなく、「社会設計」「コンピュータ・システム」を含めた、「現代社会において人間の生活にいつの間にか入り込んで人々の行動を制御する、工学的で匿名的な権力の総称」として用いて試みられた横断的な議論をまとめたもの。

『動物化するポストモダン』では、「データベースとシミュラークルモデル」が提示されているが、本書で登場する濱野智史の「アーキテクチャの生態系マップ」において描かれた情報化した現代社会の情報基盤を温床に発生する多様なウェブ上でのアーキテクチャの進化を「新しい人工的生態系」として示した図と似ており、影響力をもったことが窺える。

また、2ちゃんねるアーキテクトとしての西村博之氏にも話題が及ぶ。西村氏は「ネット・コミュニティを作りたいんじゃなくて、ネット上の都市のようなものを作りたい」と述べ、都市の「匿名性」を意識的に取り入れたとしている。これは次に取り上げる三浦展の『人間の居る場所』での「共異性」という考え方に通じている。

建築家、藤村龍至の「グーグル的建築家像をめざして」では、与条件の深い読み込みと、工業的な建築生産に近いスタディ速度を両立するために開発、実践した「超線形設計プロセス論」の方法論を紹介する。

設計履歴を模型として保存し、専門家の暗黙知を一般にも共有可能な形式知に変え、設計に関わる人々の集合知を形成しようとするプロセスになっている。藤村氏は白岡ニュータウンプロジェクトでシミュラークルとしての住宅設計をおこなったが、この方法は一見再現性があるように見えるものの、あのような抽象的な住宅が宅地一体に広がることを想像するとかなり恐ろしい風景になることが予想される。

「ウサギ小屋」と呼ばれた工業住宅もそれぞれに個々の設計者がいるからこそかろうじて風景を生み出していると言える。風景を機械で生み出すことは難しいかもしれないと思わせてくれるある意味で情報技術によるデザインの大量生産の楔になるような作品であると言える。 

また、ローレンス・レッシグによる人間をコントロールする4つの手段は「法」「市場」「規範」「アーキテクチャ」だとしており、アーキテクチャは、「人々に不自由を与えることなく設計者の思い通りに人々を操作する統治技術」だとし、そもそも対抗する動機付けを起こさせないものだという紹介もあった。

建築は、批判可能で次の種類のイデオロギーをぶつけてさらに発展するという弁証法的な発展を遂げてきたが、「大きな物語」が失効し、行き詰まっている。しかし、アーキテクチャという名の批判不可な「大きな物語」は依然として存在している。

大きな物語がなくなったというのは、性格に言えば敵対視可能な大きな物語がなくなったと言い直した方が正確かもしれない。アーキテクチャとアーキテクトが汎神化した現代において、アーキテクチャの外側に飛び出し、抗することは果たして可能なのだろうか。


『人間の居る場所』

三浦展/2016年


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著者の三浦展は消費社会、家族、若者、階層などの研究などを踏まえ、新しい時代のための社会デザインを提案するマーケティングリサーチャーである。

『3.11後の建築と社会デザイン』では、藤村龍至や山本理顕と、『三低主義』では隈研吾と交流するなど建築家との接点を多く持っている。本書の中で三浦は、近代的な都市計画で、業務、商業、住宅、工場の4つの管理的な区画分けが行われたことに対し、これからの時代においては業務と住居と商業と生産の機能が混在し、多様な人々が集まり、有機的に結びつける街づくりが必要ではないかと問題提起する。

三部仕立てからなる本書は、第一部の「都市とは何か」では、値段が高いことを楽しむ商品の箱作りの場所としての都会は時代遅れで、大きなビルやイベントホールやショッピングモール、スタバがあることを自慢する時代ではない、とはっきり主張した上で、個人の自由で楽しそうな振る舞いが溢れていること、すなわち人間の居場所があることが都市の魅力であるとしている。

街がリラクシングで、様々な個性を許容し、安くて楽しめる、エコノミカルさがあり、フランクにいろいろな人と友達になれるコミュニティが生まれることが重要だとする。

第二部の「都市を人間の居場所にする」では、都市史家の陣内秀信、映画監督の堤幸彦、山本理顕、都市空間研究者の伊藤香織と実業家の黒崎輝男との対談がまとめられ、第三部の「僕もコミュニティデザインをやってみた」では、福井・浜町と東京・吉祥寺にて、隈研吾、馬場正尊、倉方俊輔などの審査員を迎えて、3つのコミュニティデザイン大賞の開催模様が記録されている。

ウォーキングシティの取り外し可能な構想などは先に取り上げたアーキテクチャに通じていくものであろうし、60年代の丹下、メタボリスト、70年代のオイルショック、都市からの撤退、80年代の公害問題へのカウンターとしての「景観」「街並み保存」「アメニティ」のキーワードによる地方都市のムーブメントなど歴史的な視点で語られている。

三浦は、コミュニティを作る上で今の若い人が求めているのは縦の糸としての「歴史」と、横の糸としての人間関係や公共性が重要だとしている。個々人同士で繋がろうといってもなかなか共有、共感することは難しいが、歴史は変更することが難しい事実として地域の人間の間で共有可能であり、それが公共性や地域、地域住人のアイデンティティを紡ぎやすいという方程式である。

他の三浦の本のレビューなどをみると、郊外の捉え方に共感できないといった意見もあるようだが、単なる経済的なマーケティングに止まらない、人間生活のレベルから長らくマーケティングを行ってきた三浦だからこそ出せる説得力がある文章になっているのではないかと思う。

その一方で、藤村龍至の活動にあるような郊外において歴史が発見できなかった場合、その場所は切り捨てるということなのだろうか。(藤村さんは実家の高齢者しかいなくなったニュータウンで、つまり歴史も地縁も未来もない場所で計画できないかと計画しているらしいが、どうなるのだろうか。)

「戦後沖縄の近代建築における地域性の表出」/小倉暢之/2006 年

戦後、伝統的な木造建築が主流だった沖縄の住宅事情は、亜熱帯気候地域での居住性に不向きなRC造住宅が様々な試行錯誤によって改良を加えられたことで塗り替えられてゆく。本論では、アメリカ経由で普及が始まったRC造住宅における標準設計が気候風土へと適応されてゆくプロセスを検討しつつ、他方で1960年代後半ごろから活発化した公共建築の設計コンペにおける「沖縄らしい」建築表現の形成について、2つの建築物を例にケーズスタディしている。

とりわけ1968年の那覇市公会堂の設計競技おいて、沖縄近代建築の地域性を表す三要素であるとされるヒンプン、雨端、赤瓦がさかんにデザインモチーフとされ、そのバリエーションとともに地域の近代建築に影響力を持ったと指摘している。こうした地域の建築意匠に対する関心が高まりをさらに延長してみると、1971年に結成された象設計集団の沖縄での活躍も、その流れの中で起こったと理解できそうではないだろうか。

夥しい数のRC造建築が短時日のうちに建設された沖縄へ目を向けることは、アジアのローカルな地域における建築の発達を理解する上でも有用だろう。

これから建築を考える上で着目したいこと

これからの建築・都市の課題 鈴木謙介の「設計される意欲」(『思想地図』)で、アーキテクチャとは「人々に不自由感を与えることなく、設計者の思い通りに人々を操作する統治技術」としたように、今日、消費行動をはじめとする現代人の生活環境は、コンピュータシステムをはじめとするアーキテクチャの生態系によって強力に支配されている。

さらに新型コロナウイルスの流行に際した防疫という大きな世界的情勢によって、現代社会でオンライン化が加速した。そうした中で建築・都市といった実空間は今後どうなっていくのだろうか。果たして人間の居る魅力的な実空間は取り戻されるのだろうか。

大きな物語が失効したとされ、多動による行動主義によって漸進的に複数の能力を身につけ、社会への適応力を高めてゆくグラデュアリズムが建築界でも謳われている。しかし現代社会の構成員の内訳は変化してきている。個々の種を増やすことを抑制し、個体ごとの寿命を伸ばすという生物学上未曾有の状況を迎えた人口減少社会において、ランダムな行動主義を猛追するだけで社会は続けていけるのだろうか。

自己生存戦略だけに囚われない、他地域との差異化、情報環境との兼ね合い、未来の子供達の人生なども含めて、実空間に対する力の掛け方を調整できはしないだろうか。そのために今現在まで残っているコミュニティに着目し、建築家の考え方をはじめ、建設に携わった関係者、コミュニティの運営者と参加者の行動の履歴を整理し、再評価していく作業を行う。

これにより、これからのまちづくりをはじめとする建築計画や都市の未来への戦略として指標として実践者たちをモチベートし、あるいは彼らの壁として立ちはだかり、単なる行動主義によるものだけではない客観的な視座を与えることはできないだろうか。

例えば、これまで建築が都市的な人間の居場所に対して寄与してきた役割を様々な視点から見つめ直す作業が必要になりはしないだろうか。

具体的には、この間埼玉県の宮代町の進修館を訪れたときに、地域の人の日常的な振る舞いが見受けえられた。(訪れたのは日曜日だったが、その日はコスプレ撮影や、子供たちの遊び、ダンスショーなどが行われていた)それに加え、そこにいた運営側の人に話しかけてみると、その人は日本工業大学の3年生だそうで、進修館でワークショップをしたことがあるという話を聞いた。

内容は円弧型コリダーの台座に男性を立たせ、洋服を着せ、ファッションショーを行ったのだという。どうやらその学生はアパレルショップでアルバイトをしている建築学生のようで、1980年に建てられた象設計集団の建築ではいまだに現代的なワークショップが行われていることがわかったのである。

進修館は、夥しい数のRC造建築が短時日のうちに建設された沖縄でのコンクリート建築の盛り上がりと象の活動、吉阪隆正のまちづくりに対する先見性の引き継ぎ、「都市からの撤退」後、地方都市で獲得された建築家の都市への権利といった運命的な流れの中での仕事だったことが想像されるが、竣工後40年間も地域住民によってこれほどアクティブに使われる建築はそうそうないだろう。(他にも結婚式、煉瓦積みワークショップ、キャンドルナイトなども行われているようである。)

例えばにはなるが、進修館をめぐるコミュニティの状況を整理して再評価し、地域建築のあり方として批評し、広告することで、単なる行動主義のみによらない今後の持続的なまちづくり、コミュニティづくりに取り組むための指標とすることはできないだろうか。

参照:

『動物化するポストモダン』/東浩紀/講談社現代新書/2001年

『思想地図vol.3 アーキテクチャ』/東浩紀,北田暁大編/日本出版協会/2009年

『宝塚・やおい、愛の読み替え』/東園子/新曜社/2019年

『人間の居る場所』/三浦展/而立書房/2016年

「戦後沖縄の近代建築における地域性の表出」『科学研究費補助金研究成果報告』より/小倉暢之/2006 年

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