アラサーの呪いとフルーツおばあちゃん
ぷっくりと丸みを帯びた、真っ黄色の物体が目の前に差し出された。
それがバナナだと気づくのに数秒を要した。
バナナの先を目で追うと、バナナとりんごとオレンジをいくつも持ったおばあちゃんが、私をじっと見ていた。
フルーツおばあちゃんは、真顔でバナナをくいっくいっと私の口元に近づけてくる。これ以上に「ほら、食べな」というメッセージが伝わる動作が世の中にあるだろうか。
私は無言でバナナを受け取り、そのまま膝に置いた。食べないと失礼かな、という気もしたが、食べる気にならなかった。代わりににっこり微笑むと、フルーツおばあちゃんは満足したように私の隣に座った。
それからも、フルーツおばあちゃんはチラチラこちらを見ていた。
そりゃあそうか、若い子が一人で号泣しながら飛行機に乗っていたら、しかも運悪くその子が隣の席だったら、そりゃあ気になるか。
「ご自由にどうぞ」のバスケットから取ってきた果物の一つも分けてやろうという気になったって不思議ではない。
私は、アメリカの大学を卒業し、東京で就職するために飛行機に乗っていた。空港で友達が手渡してくれた手紙を読んで涙が止まらず、離陸直後から私の顔はぐしゃぐしゃだった。
英語が話せない様子のフルーツおばあちゃんは、言葉の代わりにバナナで私を慰めようとしてくれた。その優しさに触れ、(普通はああいうのって一人一個しか持ってこないんじゃないのかな)と思った自分を少し責め、友達の手紙を何度も読み、読んでは泣き、膝の上のバナナを見てまた泣いた。
そんな風に始まった東京での暮らしはそりゃあひどいもので、数年経った頃には私はすっかり疲弊していた。
仕事はそれなりに褒められたりもしたけれど、お金にならない不当労働がサービス残業という気持ちの悪い言葉で濁され、働いても働いても収入は増えなかった。そして、どこに行っても結婚の予定はないのかと聞かれた。
仕事の話をしても恋愛の話をしても、「もうアラサーでしょ?」と口々に聞かれた。
アラサーの呪いは、日本中に蔓延していた。
アラサーだから、結婚して子供産むこと考えなきゃ。アラサーだから、遊んでばっかりいないで貯金しなきゃ。アラサーだから、どんなに仕事が辛くたって社会人として我慢しなきゃ。
アラサーの呪いは、「常識」という名のベールを被り、正体を隠していた。
でも私には、そのベールはちっとも綺麗に見えなかった。小さな子供がお化けになったつもりで被るゴミ袋レベルの陳腐で不出来な被り物が、なぜ周りにはレースのベールに見えるのか、不思議で仕方なかった。
私は逃げた。
アラサーの呪いがかかっていない安息の地を求めて、私はまた片道航空券を買った。良い人に出会えば結婚したいとは思うけれど、年齢を気にして生きることも、立派な社会人としてブラック企業での働き方を甘受することも、どうしてもできなかった。
かと言って、呪いなんてないと思い込み、他人の目をかいくぐって生きていくこともできそうになかった。
生まれ育った美しい国を嫌いにならないためには、距離を置く必要があると思った。
常識という言葉は、有無を言わせぬ強い力を持っている。呪いは本物なのに、見せかけのベールに惑わされ、「こんなことで傷つく自分はおかしい」という二重苦に人は苛まれる。
年齢だけじゃない。社会的地位、家族との関係、男女の役割、体型、ジェンダー、セクシュアリティ、などなどなどなど、数え切れない呪いが、常識のベールを被ってこの世には存在している。
そして恐ろしいことに、人は無意識に呪いをかける側に回っていて、
「あの〜すみません、あなた呪いかけてますよね」と指摘されたって、
「え?私?そんなことしてませんよ。何言ってるんですか?」と平然と言ってのける。
それが差別を助長する確かなプロセスだと気づかない人が、笑顔で呪文を唱え、呪いは広がっていく。私は呪いを解く術は知らないし、口ずさんだ歌が呪文かもしれないと思うと怖くなる。
せめて、呪いに苦しむ人がみんな、フルーツおばあちゃんに出会えたらいいのにな、と思う。
フルーツおばあちゃんだって呪いを解く力も特効薬も持っていないだろうけど、涙の理由も聞かずに差し出された真っ黄色のバナナには、呪いの効果をちょっとだけ弱める成分がきっと入っている。
私もいつか、泣いている人に無言でバナナを差し出すようなおばあちゃんになれるだろうか。
「ご自由にどうぞ」のバスケットからいくつも果物を取ってくる度胸はないけれど、たった一つだけ持ってきたバナナを見知らぬ誰かに差し出すような、素敵なおばあちゃんになれたらいいな。