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読書の秋とは言いますが

みなさん本を読んでます?

最初の投稿で『インドア趣味ならなんでもこい』風な大言壮語を書いた気がしますが、よーくよく思い出してみればしっかり本を読んだのはいつだったか…。
確かスマホでkindle版の『粘膜人間』を数か月前に読んだのが最後かなとおぼろげな記憶があります。多分そうです、あの内容は忘れようったって忘れませんから。『殺戮に至る病』を読んだ時と同じ衝撃でした。

紙のって読んでます?

さて、いわゆる電子書籍で読んだのが一番新しい読書の記憶。
便利ですよね、kindleなんか。
ここまで読んだ!の続きからすぐまた読めますし、スマホがあればどこでもなんでも(売ってる本なら)読めるのでベッドの中で眠れないな、なんて時についつい読んでしまう手軽さがあります。
しかし私は古臭い人間なのか、それを読書と呼んでいいものかビミョーな気分になるんです。

読書を辞書通り『本を読むこと』の意味で受け取るならば、手に持ったコレはどう見ても本じゃなくってスマートフォンだからでしょうか。

私は『紙の本じゃなければ読書とは言えない!』なんて過激な思想はないのですけど、どうもやっぱりしっくりこない。ページをめくる感覚がないからなのか、暗いところでも読めるからなのか、それとも手に持った感覚やサイズの違いなのか…。
特にこれといった確証のない違和感が残ってしまうのです。

じゃあ最後に紙の本を読んだのはいつだったか?
それははっきり覚えてます。1年前の秋、タンスから秋物冬物を引っ張り出す時期に読んだ『ライ麦畑でつかまえて』です。

私の読書

私がまだ若き高校生の頃、何か読書感想文にいい本はないかと探して出会った 野崎 孝訳のライ麦畑でつかまえて。
初めて読んだときは主人公のホールデンのやり場のないような、少年期の終わりに感じるような焦りとも失望ともつかない心の燻りに共感し、読み終わった後にもう一度初めからページをめくりました。

しかし、ここまで読まれた方は大体おわかりでしょうが、とてつもなくいい!と思える本に出会えた私には悲しきかな、アウトプットするオツムがないもので感想文に書くのには相当苦労しました。

ですが『本の中に私がいた。国も時代も違うが、私と同じ少年が確かにいた』という強烈な印象が今でも心にこびり付き何度も何度も読書の秋と世間が騒ぐ頃には本棚から引っ張り出して読んでいるんです。

そろそろまた色あせたライ麦畑でつかまえてを引っ張り出す時期が来ました。
静かで明るい部屋で独り、亡霊の如くホールデン少年に寄り添い、行ったこともないニューヨークのクリスマスをあの頃と同じ心のままに謳歌し幻想のような風景の余韻に浸り本を閉じるこのルーティーンが私にとっての読書の秋、読書そのものなのだと感じるのです。

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