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『 』(かっこ)のある居場所

居場所づくりに関わることになって、
いろいろな居場所の取組みに触れると、
素晴らしさや必要性を実感するとともに、もやもやとしたものを感じます。

また脚光を浴びる居場所づくり

従来から知られた問題である人口減少、少子高齢化、ライフスタイルの変化など、地域活力の低下圧力が増しているなかでのコミュニティ活性化の文脈に加えて、新型コロナ禍や物価高騰の影響による、孤独・孤立問題の顕在化・深刻化があって、国の政策における居場所の存在感が高まっています。

“居場所”は、自明のことのように浸透していますが、人それぞれ様々な解釈がありえます。
また、“居場所”には、(省略されていますが)“心地よい”ことという官能評価が前提にあります。
同じ居場所であっても、人によって、合う・合わない、受け取り方が違います。

しかし、ここで公共政策として、“居場所”を考える場合には、一個人の趣向やレスパイトの充足ではなくて(それは大事なことですが)、公共性のある場として、どのように取り扱うのかという視点がもとめられます。

居場所、公共的なもの

例えば、レイ・オルデンバーグの『サードプレイス』は、もう、古典といって差支えないと思いますが、この中に

たいていの場合、わたしはそのような場所を(第一の家、第二の職場に続く)「第三の場所」と称するが、それらはインフォーマルな公共の集いの場だ。
こうした場所は、あらゆる人を受け入れて地元密着であるかぎりにおいて、最もコミュニティのためになる。
サードプレイスの一番大切な機能は、近隣住民を団結させる機能だ。

『サードプレイスーコミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』

「ストレスの原因は社会にあるが、その治療は個人で対処するもの」という見解に傾いている。強いストレスは現代生活における不可抗力の一つであり、社会体制に組み込まれているのだから、それを緩和するには本人が体制の外に出るしかない、と一般には見なされている。楽しませよう、楽しもうとする努力さえ、他者との競り合いになってストレスを引き起こしがちだ。人は家の外の世界で「病気になり」、家に引きこもることで「治る」という見解に、わたしたちは危険なまでに近づいている。

前掲書

とあります。

全体的には現代となっては最新の価値観にそぐわない点もありますが、この部分は、現代の居場所必要論に通じる論拠となると思っています。

社会の不便さから生じるストレスには、個人個人で対処すべきという風潮が根強いですが、そうではないと。居場所は、社会として集団の幸福を目指すための公器(おおやけの器)として認識が必要ということです。そうした視点があるから、公的に関与・支援する意義があると言えます。
ただし、ここでの居場所は、インフォーマルで自由なものという位置づけです。

フォーマルな居場所は真に居場所なのか

東畑 開人さんの『居るのはつらいよ』という本は、
院を出たての東畑青年が沖縄のデイケア施設になんとか職を得て、そこでの数年間の実体験を通した気づきを紹介していて、人類学的にエスノグラフィーとしてとても面白い本です。
いろいろ興味深いエピソードがありますが、著者はこんなことを感じるに至ります。

何が言いたいかというと、超シンプルなことだ。
セラピーにはお金がつきやすく、ケアにはお金がつきにくい。これだ。
会計の声が持ち込む市場のロジックは、セラピーに好意的で、ケアの分は圧倒的に悪い。
変化をもたらし、効果があり、価値を生み出すことを、会計の声は求める。

『居るのはつらいよ ケアとセラピーの覚書』

そうだよねと思いました。
自立は、現代の価値観だと、就労して自活するという意味に近いと思います。
この投稿を読んでくださるような奇特な方は、そんな単純な話じゃないよね、という認識があると思いますけど、厚生労働省の施策には、多かれ少なかれ自立の価値観が埋め込まれていると思うんです。あくまで個人の感想ですが。
ですが、厚生労働省がなんか冷血な、いけずの集団というわけではないです。
いけずなのは、財務省、、でもなくて、国全体を覆う雰囲気がそうなんだと思います。
行政は、価値観の風(民意)をもろにかぶるので、効率が、効果が、成果が、という価値観に縛られています。
重層的支援体制整備事業には、フォーマルな居場所に関わるメニューがありますが、意義は分かったけど、それでいったい何人が社会参加できたの?就職できたか?と迫られたとしたら、
東畑さんの表現を借用すると、「居るための居る人」は評価の対象にならないです。
そういう“居場所”は、みんなが必要だと思っている、心地よい“居場所”なのでしょうか。
現代の行政は“居場所”という取組みをすることに向いてないと思います。

『 』(かっこ)つきの居場所、

仮に外部から力が加わった授権的でフォーマルにつくる居場所を『 』(かっこ)ありの『居場所』、
自然発生的なインフォーマルにできる居場所を『 』(かっこ)なしの居場所と使いわけるとします。

『居場所』は、境界がはっきりしていて、利用者の区分があります。利用ルールが決まっていて、ときに利用に窮屈な思いをします。なにより、目的や理念として、することや目指す状態が埋め込まれています。
『 』なしの居場所は、境界があいまいで出入りが自由。ルールは明示されていないか、合意で形成される。心地よいことを大切にし、特に目的がなく活動する。と考えられます。
『 』なしの居場所も、『居場所』に近づいていくことがあります。
楽しそうなのは、『 』なしの居場所です。
多分いま国が求めているのは、『 』なしのできる居場所だと思うのですが、行政が取組もうとすると『居場所』づくりになる。このジレンマを解消することが課題です。

『 』なし居場所に迫る危機

自分が知っている限りですが、『 』なし居場所(とそこで活動する人)は、とても楽しそうで魅力的です。しかし、楽しそうな居場所にも危機の予兆があります。
ひとつには、魅力的な取組みに寄ってきては巻き込みを画策する行政の接近です。
基盤が弱い居場所にはメリットもありますが、反面、『居場所』化圧力というデメリットもあります。

次に、担い手の疲弊や消耗です。インフォーマルでゆるい居場所は、基盤が確実でないことが多いです。そこに取組みに対する周囲の無理解や偏見、ときに排除さえ起きることもあります。(価値観の対立)

これには、近寄りすぎず、放置もしない、見守るというムーブがありますが、そうするなかで、『 』なし居場所の良いところを学んだり、行政と『 』なし居場所との関係や『 』なし居場所同士の関係づくりに貢献することが必要なのではないかと感じています。

『 』なしの居場所づくり

『 』ありの居場所は好みではありません。
自分にとって、居心地の良い居場所とは、出入り自由で、縛りがゆるくて、何かを強制されることのない空間だからです。
しかし、そうした居場所は、ずっと安定しているものではなく、『居場所』化の脅威や消滅の危機にさらされています。
それに、行政が居場所に向いてないとしても、全くの自然発生に頼っていては、必要があるのに、利用できない、居場所がないという人が生じるので、ナショナルミニマム的な発想は必要です。
すっきりとはしませんが、しばらくはもやもやとしながらも、居場所づくりに取り組んでいくことになりそうです。

居場所はつらいよ。市場の透明な光が満ちあふれるこの世界で、アジールは次々とアサイラムになっていく。居るのはつらいよ。
だけど、それでも、僕らは居場所を必要とする。「いる」が支えられないと、生きていけないからだ。だから、アジールはいつも新しく生まれてる。たとえそれがすぐにアサイラムになってしまうとしても、それは必ず生まれてくる。
そういうものを少しでも生き延びさせるために、このケアの風景を描く。

『居るのはつらいよ ケアとセラピーの覚書』


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