今日は何の日(2020/2/7)
1. 北方領土の日
北方領土の日は、日本政府によって1981年(昭和56年)に制定された記念日です。1855年2月7日(旧暦では安政元年12月21日)、伊豆の下田において日魯通好条約が調印され、この条約により日露両国の国境が択捉島とウルップ島の間に平和裏に定められ、北方領土が日本の領土として初めて国際的にも明確になりました。その歴史的な意義と、平和的な外交交渉によって領土の返還を求める北方領土返還要求運動の趣旨から、2月7日が「北方領土の日」として最も適切な日とされました。
2. 北方領土の面積
北方領土は択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島からなり、その面積は 4,996 平方キロメートルです。これは、千葉県(5,158 平方キロメートル)や福岡県(4,986 平方キロメートル)とほぼ同じ面積です。
また、歯舞諸島(94.8 平方キロメートル)は小笠原諸島(104 平方キロメートル)と同じくらいの大きさで、色丹島(251 平方キロメートル)は、島根県隠岐本島(242 平方キロメートル)より大きく、国後島(1,490 平方キロメートル)は沖縄本島(1,207 平方キロメートル)よりも大きく、択捉島(3,168 平方キロメートル)は鳥取県(3,507 平方キロメートル )と同じくらいです。
3. 北方領土問題の経緯
3-1. 第二次世界大戦以前の北方領土
日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。
1875年、日本は樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。
1905年、日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。
3-2. 第二次世界大戦と領土問題の発生
1941年8月、米英両首脳は、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名し、戦争によって領土の拡張は求めない方針を明らかにしました(ソ連は同年9月にこの憲章へ参加を表明)。 また、1943年のカイロ宣言は、この憲章の方針を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から日本は追い出されなければならないと宣言しました。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾しました。ポツダム宣言は、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域」から日本は追い出されなければならないとした1943年のカイロ宣言の条項は履行されなければならない旨、また、日本の主権が本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸島に限定される旨規定しています。しかし、当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、同8月28日から9月5日までの間に、北方四島を不法占領しました(なお、これら四島の占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました)。
1951年9月、日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。
※日ソ中立条約(1941年4月)
同条約の有効期限は5年間で、1946年4月まで有効でした。なお、期間満了の1年前に破棄を通告しなければ5年間自動的に延長されることを規定しており、ソ連は、1945年4月に同条約を延長しない旨通告しました。
3-3. 現在
北方領土は戦争によって獲得した土地ではなく、権限を放棄する千島列島には含まれませんが、ソ連は千島列島の一部であるとして北方領土を占領し、その状態が現在まで続いています。1956年の日ソ共同宣言で両国は国交を回復させましたが、領土問題が未解決であるため、いまだ日本とロシアの間の平和条約は締結できていません。