1/20「北斎のうそ、梅園のほんとう。」
毛利梅園の博物画の画像を見ていた。もうり、ばいえん。このひとはすごくて、べつに絵描きではないんだけど動物やら魚やらを執拗にていねいに描いている。こんなかんじ。
1800年代前半のひと。亡くなった年が葛飾北斎とだいたい一緒で、ドラクロワとは同い年。
絵のよこにちょろちょろ書いてある文字は、その動植物のなまえとか特徴とか。今でいう図鑑みたいなものだから。
ほんものの動植物をじっくり観察して、紙に記録していったんだな。骨の構造、模様、質感、色合い、ひっくり返したらどういう仕組みになっているか。真剣に見て、うそのないように紙に写しとっていた。そういうことがすきだったんだね、きっと。画像で見るのもいいけど、国会図書館が所蔵してる本物は何事かとおもうくらい。
動物の絵か〜。ふっと葛飾北斎の蛇の絵を思いだした。見てみる。
この緊張感よ。
梅園と北斎、おなじような時代で、おなじように生き物を描いて、なにがちがうかっていうと、「おれは絵を描いているぜ!」と思っているかいないかなんじゃないかなあ。だって描く目的がちがうから。
具体的にいうと、北斎は画面の四隅に気を配ってる。余白がまぬけにならないように、描いてあるところと描いてないところをひとしく扱ってる。生き物はあくまで絵のための素材でしかない。このしかくい画面全体が絵なんだね。絵を見た人の、視線がするすると画面の外に出ていかないように。要所要所を押さえて、いつまでも視線が画面のなかをただようように、構成されてる。
だからべつに蛇の一部がかくれていようがOK。鳥がげんじつにはありえない角度でとまっていてもOK。蛇、鳥、竹(?)、ぜんぶ似たような質感でもOK。絵としてよければよいので、いくらでも嘘をつける。北斎はじぶんなりの嘘のつき方をたくさんもってるひとだった。
たいして梅園は、画面がどうのなんてかんがえてなかったんじゃないかな。そんなこと、かんがえるだけ無駄だったのでは。だって博物画だもん。どれだけ本物に近づけるか。目の前の動植物そのものを記録できるか。本物を見たことがないひとにも伝わるような、本物の質感、本物の模様、本物の構造を描けるか。その真剣な眼差しにうつくしさをかんじる。
よい絵はよい嘘をつく。
よい博物画は嘘をつかない。
このふたつをごっちゃにすると、おかしなことになってしまう。
たとえば絵に対して「めっちゃリアル、本物みたいですごい!」とか。
博物画に対して「絵画としての価値が高い」とか。
ああ、北斎と梅園が笑っている。すみません。
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