<読書感想>生きると死ぬと、これからと


2024年は、嫌なことが多い1年だった。

まだ1年終わってないけど、もう、そう言っていいと思う。

例えば、パソコンの充電器が急に使えなくなって、
あ、そういやこれ、もう長いこと使ってるから壊れたのか、と判断して
電気屋さんに買いに行って、
お取り寄せで1週間ぐらいかかりますよって言われて、
いま待ってる最中なんですけど、

その充電器を、ふと、なんとなく使ってみたところ、
普通に使えて。

え、壊れてないの?

けっこう痛い出費だったんですけど……。

と、このように、なんか最近、
ことあるごとにこんな調子で、
しかもいまの私にとって、しっかりダメージになるようなことが多い。

なかなかに、人生とはままならぬものだなぁ。

あーあ、通院関係ですごいお金出ていく。これから、また出ていくし。
すみません、ただの愚痴です。


ちょっとずつ心身ともに回復してきたようで、
集中して文章が読めるようになったので、
だいぶ時間は短いけど、たまに読書をしてます。

まだ、読書なんて、それどころか、趣味をする気にもならなかったとき。

親子がテーマのこの本は、
もしかして、読んだら辛くなっちゃうんじゃないかと思っていたのが、
ジェーン・スーさんの『生きるとか死ぬとか父親とか』。

久しぶりに少し読み直してみた。

タイトル通り、スーさんと父親とのことが中心で、母親が亡くなるまでと、亡くなったあとの関係や気持ち、環境の変化など、エッセイなんだけどエッセイらしくないというか、小説を読んでいるような感覚。(ああ、語彙力がなくてうまく伝えられない)

スーさんは、母親が亡くなったときの気持ちを詳細には書いていない。

余談になってしまうが、私はというと、このnoteに、なぜか書いている。
それも、病院から帰ってきて、まだ心がショックを受けて時間が経っていない状態で。

なぜ、そんなことをしたのか。

なんというか、そのとき、書かずにはいられなかった。
当時の気持ちはうまく思いだせないし、こうして書こうとしてみたけど、説明できなかった。


スーさんのお母さんは、スーさんに母親以外の顔をあまり見せない人だった。これは、別の本にも書かれていたことで、スーさんとしては、母親ではない部分も見たかったのかもしれない。

けど、お父さんはというと、他人の私が勝手にこんなことを言うのはどうかと思うのだが、スーさんから嫌われたり、憎まれてもしょうがないことをしている。

親子の密着感がそんなにない。いや、これってないほうがいいのかも。人と人との間には、ちょうどいい距離がある。近すぎると、かえってケンカになったりするのだ。ヤマアラシのジレンマってやつ。

ときどきぶつかったり、離れたりして、これは言ってはいけないとか、これは嫌とか、お互いに伝え続けるしかない。

スーさんの本を参考にしたいと思ったんだけど、読んでいる途中で思った。たぶん、うちはスーさんとお父さんのようにはなれない。

そもそも、父も母も、私から見るとそれぞれ、普通とか一般的な「親」らしくないと思っている。変とは言えないけど、ほかの家とは違う。
なんか違う、とうっすら気づき始めたのは、小学生になって、友達ができた頃。自分以外の家の中や、友達と家族の関係性を見聞きするようになったから。

例えとしては適切じゃないけど、
親に虐待を受けた子どもは、それが生まれたときから当たり前の環境だから、本当の意味での「普通」を知るまで、自分が普通じゃない環境に置かれていると気づかない。

家族によって、嫌な目にあっている人はたくさんいる。
そうなの? と思った方、何か怖い結果が出そうな言葉をググってみてほしい。「家族 消えてほしい」とか。

血のつながり。血は争えない。血は水より濃い。家族=血縁という考え方が根強いけど、私はあえて言いたい。そんなの、気にしなくていい、たいしたことないよ、って。
極端な言い方をすれば、自分と人との間に、相手を大切にしたいって気持ちがあれば、家族みたいになれるよ。
きれいごとすぎるかな。でも、それがなかったら、はたして家族といえるのだろうか?


はたから見ると、「なんでこの2人、離婚しないのかな」って思う人たちはいる。けれど、それは2人が決めることで、2人にしかわからない。

案外、子どもから「別れたらいいのに」と思われてるのに別れない夫婦(両親)って、けっこういるんじゃないかなと思った。

別に、無理して家族いっしょにいなくてもいいのだ。

この本は、「家族は、こうあるべき」から解放してくれる。

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