ナオコライフ48 モノとの関わり〜物質と精神

夜に書くってなかなかなくて、今は夜9時すぎ。わたしの中ではありえないくらいめずらしい。昼間に書いた記事があるけど、なんとなくまた書きはじめた。


あいも変わらず、台所にいる。母はテレビを見てる、読書もしてる。夕方にカフェにいってきて、楽しく過ごしてきた。なんだか今日は緊張して書いている。いつもとちがったことしてるからかな。なんか、昼間に書いたものが気に入らないだけなんだとおもう。しかも、今はどんなことを話題にしたらいいのかな何も決めずに書きはじめた。白湯が足りなくなって、鉄瓶で沸かしてる。鉄瓶がないと、わたしの暮らしは成り立たない。白湯が湧いたから、ポットにうつした。これで、いつも湯呑で飲む。


洗濯機が回っていて、毎晩我が家はこの時間こんな様子。母もわたしもばらばらに好きなことをしている。


一日をふりかえって書くことに慣れてないのか、どうしたらいいのかわからない。


おもむろに、音楽を聴くことにした。いつも書くときに聴いてるプレイリストを。これを聴くと、不思議と胸の仕えがとれるようにすっきりとする。記憶が巡る。急にテーブルの上にのっているモノたちが生きてるように感じはじめた。実際、生きている。固まってるように見えるだけ。


洗濯物を干してまた空気が変わる。リラックスする。白湯を飲む。


物質について、モノについて関わることって、万人が暮らしの中で当たり前のようにしていることだとおもうけど、なぜか、モノを取り上げると咎められる空気を感じる。ここnoteでは。このことについて、はじめて書くけど、わたしはいつもうつわの記事を書いていて何か心苦しさを感じていた。これは、Instagramでは感じたことのないことだった。モノを扱うと批難が飛んでくるのを感じていた。わたしが障害者だからか。お金の問題なのか?誰もが皆、日本人はお茶碗を使ってごはんを食べている。この事実は揺るぎないとおもうけど、とりあげると何か寒い空気を感じていた。わたしの立場がいけないのか?


古い記事にしか書いてないけど、なぜうつわを買っていたのか。それは、老後にごはんをどんな状況で食べることになるかわからないけど、そのときに愛着のあるモノたちに囲まれておいしいごはんを食べれたら幸せかもしれないと希望をもって買っていた。料理の意欲も湧くかもしれない。その希望ももって。切実なおもい。


でも、もう今はうつわの記事は書こうとおもってない。父が亡くなって、意欲もないし、満たされてるっていうのが、事実。毎日楽しんで使っている。その楽しみ、喜びは波動となり、わたしの体調にも良い影響があると信じている。だから、使うモノに何をセレクトするかは重要。物質と精神のつながり。こんなことを日常的に考えている。


ちょっと、長くなりましたが、ではまた。


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