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植物とつきあうってむずかしい
今この瞬間に思っていることを、そのまま文章にすることは、とてもむずかしい。
コーヒーを淹れたばかりで、しかもなぜ淹れたのかと聞かれたら、それはコーヒーを飲みたかったからだけど、その前に、母が美容院へと出かけていった、人の気配のないぽつんとした静かな時間を満喫するために、コーヒーを淹れたということだ。ここまで説明するのに遠回しになる。コーヒーを一杯飲むのに理由が必要なようだ。
そもそも、なぜ書き出したのか。コーヒーが飲みたかったからではないか。なのに、私は書いている。コーヒーはそっちのけだ。こんな、ちっぽけな私のことなど、ここで文章にしてどうなるといいたいが、書きたいから書いている。やはり、ひとり時間でないと書けないらしい。朝もいつもひとりだから。
最近、やめていくことが多い気がする。ひとつ諦めたことがある。それは、観葉植物を育てることだ。庭仕事はよくても部屋で鉢を育てるのは好きになれないのは、わかっていたけれど、本当に向いてないことが最近わかってきた。要するに、葉が枯れてきたのだ。私の気を吸ってくれているのか、植物は悪い気を吸ってくれるというけれど、そういう現象なのか、それとも毎日のように霧吹きを葉にやりすぎたせいなのか、よくわからない。私は観葉植物と相性が悪い。庭先においてあるプランターのほうれん草は小ぶりながら、もさもさと元気よく育っているのだから。余計にわからない。なにが悪いの?
観葉植物という命を枯らしてしまったことに、とてつもなく罪悪感を感じる。命がまだ終わったわけではないけれど、鉢をひとつ育てることさえできないのか、と。私は人間として失格ではないかと思ってしまう。私の部屋は、植物と相性が悪い。先代の観葉植物は大きすぎて先鋭すぎて怖かった。だから、今回は小ぶりの丸い葉にしたんだけど、それでもだめらしい。唯一生き延びているのは、エアプランツだ。うつわの上に置いてあるだけ。空気があればいい。たまに霧吹きをするくらい。
この状況に悩む。世のインテリア写真などには、美しく観葉植物が多数置いてあったりするものだから、それくらい人としてできるものかと思うものだけれど、そんな当たり前とされてあることが私にはできない。当たり前って本当にむずかしい。それとも、当たり前ではないのか、私はメディアに洗脳されてるだけなのか。
だけど、鉢が苦手なのは、前からだからどうしようもない。外で植物に触れるのはいいけれど、家の中には切り花しか受け付けない。と、ここまで書いて台所に観葉植物が何年も生きていることに気がついた。たまに水をやる程度なのだ。まめではない。よくあるポトスだ。
ますます、わからない。私の部屋が環境悪いのか、そういうことなのか。私の部屋には植物は置かない方がよいということしか考えられない。冬だからだろうか。命を守ることができない私は、どこまでも情けない。でも、これは本当のことなのだから。私の部屋には植物は置かないことにする。もしかしたら、5月の剪定の季節になったら何とかなるかもしれないと思うけれど。
いいとこばかりを強調しがちなSNSの傾向にも嫌気が差しつつ、本当のことを書くと、大抵は反応が悪いのはお見通し。だけど、本当のことを書きたいと思ってしまうから、発信しよう。ただのありふれた日常のことだけどね。
空川ナオ