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【備忘録】高等商船学校での陸軍士官学校『船舶兵科』生徒教育
(注意)以下の投稿については、私の個人的な見解を含むものであり、一部読者を不快にさせる表現が含まれている可能があることをお詫び申し上げます。しかし、内容については、戦争を讃美したり、現在の教育を否定したりするものではないことを併せて申し伝えさせて頂きます。御精読願います。
1 商船学校における陸軍士官学校「船舶兵科」委託教育実施の背景
第二次大戦時の陸海軍の不仲に関する話は枚挙にいとまがないが、言わずもがな、海上護衛の問題に関してもそうであった。陸軍は離島における作戦の失敗が海軍の海上護衛軽視に起因するものだと考え、陸軍船舶兵という兵科を作り空母や揚陸艦などの大型船を自前で運航することで状況を打開しようとした。
一方で、このような状況を海軍は全く好ましく思っておらず、当時参謀であった高木惣吉は、「海軍が物資不足で艦艇建造がままならないなか、陸軍はどこをどう無理したのか護衛空母や潜れない潜水艦まで建造し、宇品でボートも漕げない船舶兵(暁部隊)を養成している。」などと辛辣に批判している。
この船舶兵について陸軍士官学校で独立した兵科として教育が開始されたのは、1942年(昭和17年)からであり、陸士第57期から60期の生徒がこれに該当する。陸軍で大型船の運行をやるのであるから、当然彼らには航海術や運用術の知識が必要となる。このような経緯から、陸軍は当初その養成を海軍に打診したのであるが、前述の事情で海軍はこれを断った。
このため陸軍がまず取り組んだのが、船舶兵要員の獲得であった。海軍は予備員令を布告し、内地の商船学校や海員学校卒業生の人事を掌握していたが、陸軍はこの制度上の盲点をつき、朝鮮総督府海員養成所に陸軍予備生徒、陸軍予備候補生の制度を適用し同校から将校要員を獲得すると共に、幹部候補生課程を拡張するなどして人的基盤の強化を図ろうとした。
そして、将来の基幹要員である陸軍士官学校生徒の船舶兵科教育については、高等商船学校に委託する形でこれを解決しようとしたのである。そもそも、この外部への委託教育自体は、陸軍士官学校史上初の試みであり、陸士側は相当な覚悟を持ってこれに取り組んでいた。
2 『難題』 〜1ヵ年で船舶職員を養成せよ〜
高等商船学校に委託教育の話が舞い込んだのは1944年(昭和19年)の春であった。この陸海軍の皺寄せのような事態に、航海科教官室はそもそも話を受けるかどうかで喧々諤々の議論となった。なぜなら、通常、座学3年、実習1年半で実施している商船士官教育を1ヵ年でやれときている。これでは委託教育の実行性そのものに疑問が出ても不思議ではない。
しかし当時の航海科先任教授であった渡辺俊道が熱心に学校長その他を説得して、ようやく教育実施の運びとなった。航海術については、渡辺が責任を持つことで一先ず落ち着いたが、運用術については、広範な内容を要領よくまとめ、かつ短期間に教育できる良い人材が見つからなかった。そこで白羽の矢が立ったのが、練習船「やよい丸」船長の薬師神利晴(やくしじん としはる)であった。
薬師神は1936年(昭和11年)に東京商船学校を卒業し、戦時中は陸軍徴用船に乗り、マレー半島、アンボン、ティモールその他の上陸作戦に参加し、昭和18年10月、昭南港から高等商船学校に呼び戻さていた。海軍の階級では予備中尉(大尉であった可能性もあるが官公報からは見出せない。)であったので、若い陸士生徒を指導するには適任であった。このため、彼は航海科の先輩教官が数多くいるなか、「実戦経験豊富で若い」という理由から半ば強引に、陸士生徒の運用術教官に指定されてしまう。
3 渡辺、薬師神による陸士教育の開始と「航海訓練所」説得
陸士生徒に対する教育の体系化については、「座学3年、実習1年半の教育を1ヵ年で実施」という期間の短さから相当な困難を伴うことが予想された。このため渡辺は、座学については「商船運用の概要」に絞り、他のことは乗船実習の実地教育で解決することとした。
陸士教育の先発は陸士58期である。彼らは練習船「やよい丸」(約50トン)を使用して東京湾内で地文航法や操船法などを学んだ。この指導を務めた薬師神は「陸士生徒は予想に反して出来が良かった。」と後年語っている。また陸士59期は、58期が大型船乗船実習で同校不在の間に商船学校校内に繋留されていた練習帆船「明治丸」に宿泊し「日本海軍頼るに足らず、我らこそ」の精神で実習教育や航海術を学んだ。
渡辺、薬師神が次に行ったのが、大型練習船での校外教育の調整であった。これには、商船学校から航海訓練所に帰属替えとなっていた練習帆船「大成丸」を使う計画となったが、航海訓練所では、部外者を練習船に乗せるということで大問題となり相当に揉めた。
当時、航海訓練所の練習船全部は「練習船隊緊急輸送計画」の名の下、海上で商船学校生徒を訓練するかたわら、実任務の戦時輸送を行なっており、そのような教育を実施する余裕はなかった。そこで渡辺と薬師神らは大成丸を直接訪問し、2人が陸士生徒の全責任を持つということで、強引に訓練所を説得したのである。また、陸士生徒隊長の八野井大佐(『航海訓練所二十年史』等では「八野木」となっているが「八野井」が正しい。)も同船に出向き、本訓練に寄せる陸軍の期待を述べ、練習船の協力を懇願した。
そして最終的に「大成丸」船長 名古屋松太郎 の「よし、やろう」という大英断で陸士生徒の乗船が決定する。
4 練習船「大成丸」での実習について
このような経緯から陸士58期の「大成丸」実習は、もはや敗戦濃厚となりつつある1945年3月19日から28日にかけて実施されることとなった。以下、現在記録に残っている実習の経過について記しておく。
1945年(昭和20年)
1月30日 陸士船舶兵科加藤少佐と渡辺、薬師神教官が「大成丸」を訪問し訓練について打合せ。「大成丸」からが千葉、谷教官が参加した。
3月15日 「大成丸」谷、浜田教官が陸士(相武台)本科見学
3月19日 神戸停泊、士官候補生71名乗船、指揮官加藤少佐、区隊長増本大尉、松本大尉、ほか数名、陸士生徒隊長八野井大佐1泊
3月21日 0900、神戸出港、夕刻内海小与島東方仮泊
同 日 午前、ジャイロコンパス講義、午後、水中聴音機の講義
3月23日 若松港外着
3月24日 そのまま仮泊
3月25日 若松港内午前繋留石炭搭載、夜講義
3月26日 若松港出港
3月27日 午前0830、来島海峡通過、魚島南方で性能試験を行う、魚島北部に仮泊
同 日 午後3時に抜錨、神戸に向かう
8月28日 早朝神戸入港、午前8時士官候補生退船
この実習中に陸士58期は陸士歩兵科から重機関銃1丁を借用して乗船していた。彼らは神戸で空襲に遭ったが、同期で機関銃を撃った経験のある者は一人もいなかった。しかし、とにかく撃ってみようということで、大成丸から米軍機へ向け機銃掃射を浴びせてみた。しかし、射後手入れの方法が分からずそのまま歩兵科に返したところ大激怒されたという。船舶兵科は、陸士在学中も機動艇訓練などを主としてやっており、射撃の演練などほとんどなく、小銃に触る機会も稀であったという。このような所からも、陸士教育での船舶兵科の特殊性が分かる。
『練習船大成丸史』では、陸士生徒58期について「すでに決死突入の覚悟であった生徒の挙措(きょそ:立ち居振るまいの意)はすがすがしく真剣であり、船側に強い感銘を与えた。また船舶兵生徒は退船にあたって、一様に練習船大成丸の教育訓練に対する深い感謝と敬意を表明したが、「大成丸」の伝統であった「一視同仁」、「不言実行」の教育が、陸軍の培って来た精神に対して別種の風格を印象づけたことが知られた。」と評している。
戦後、陸軍士官学校船舶兵の同窓生は、安藤、薬師神を「先生」としたい、生涯に亘って交流を続けた。
5 「一視同仁」 〜安藤先生、薬師神先生が伝えたかったこと〜
戦争末期、渡辺俊道が多くの反対を押し切ってまで陸軍士官学校生徒を受け入れた理由は何であったのだろうか。航海学の教育者である渡辺の考えに思いを馳せる時、それはまさに大成丸の伝統である「一視同仁」の精神であったように思う。「一視同仁」とは「全てを分け隔てなく慈しみ愛情を持って接すること。差別しないこと。」を意味する。
当時の商船教育の真髄は、端的に言えば「伝統の継承」一言に集約される。渡辺はもはや敗戦色濃厚な時局に、これを「一視同仁」の精神で「日本人」たる後輩に伝え引き継ぐことに価値を見出し、引いては彼らがその真髄をもって祖国復興の礎たらんことを願っていたのかも知れない。
一方、薬師神は戦後、航海訓練所、海上保安庁を経て海上警備隊(後の海上自衛隊)に入隊し、1968年(昭和42年)に呉地方総監(海将)を最後に退官した。海自と海保の不仲が続いていた当時にあって、「自衛隊の海上警備には海上保安庁との連携が必要不可欠である。」と主張する卓識の人物であった。
その後は海防艦顕彰委員会顧問、海洋会専務理事、海難審判協会監事などを歴任し、海にその生涯を捧げた。
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ここで、最晩年の薬師神が残した言葉を紹介し本投稿の結びとしたい。
「日本海運の現状は、海運大国などといっておれない苦難の時代と言っても過言ではない。明治以来長年にわたって日本の国造りに大きな貢献をしてきた海運が時代の趨勢で衰微したでは許されまい。
日本人による日本船の必要について、現状から10年後の将来を考えてみても、明るい姿は見出せそうもないが、先輩から受け継いだ日本海運を立派に後輩に引き継ぐための努力を惜しんではならない。
日本が経済大国というからには、横綱相撲がとれる実力がなければならない。横綱の権威が「心」「技」「体」の完成にあるとすれば、大国として生きる日本の道もそれが備わっていなければならない。しかし、現状の我が国の実力は「技」が先行した大国で、いまだに横綱道は程遠い気がしてならない。
将来の日本船員、日本商船隊を考えるとき「技」だけの横綱でなく、「心」「体」を兼ね備えたものでなければ生き残れないような気がしてならない。日本人なればこその船員像を追求し、これを国際場裡に広めてゆくと考えれば、暗い現状にあっても努力のしがいがあり、後輩に引き継ぐための有意義な生き方となるであろう。」
おわり