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クリル捕鯨船団と女性船員の活躍 〜樺太・千島におけるソ連捕鯨の歴史〜

(注)以下の内容には、日本語読者に平易に読んで頂けるよう、意図的な意訳・省略等が含まれています。当方の知識不足もありますので、誤記・誤訳等がありましたら、誠に恐縮ではありますが、御一報頂ければ幸いに存じます。

 1950年代から60年代にかけてのソ連捕鯨の発展には、戦争により日本から南樺太と千島列島を獲得したことが大きく影響している。第2次世界大戦で甚大な被害を受けたソ連は、極東地域の天然資源開発に注目し、捕鯨が戦後の食糧難を解消する重要な手段と考えられるようになった。ソ連は日本がかつて同地域で営んでいた水産業の調査を進め、新たな領土での捕鯨の可能性を追求した。

『カムチャッカ地域の叙述』を著した地理学・民俗誌学者ステファン・クラシェニコフ
(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)

 千島列島では、アイヌ民族が伝統的に捕鯨を行っており、ステファン・クラシェニコフの『カムチャッカ地域の叙述』でもその漁法が記録されている。1875年の千島・樺太交換条約以降、千島列島は日本の水産業の主要拠点となり、マッコウクジラやイワシクジラの豊富な漁場であった。1940年から1943年には、千島列島に9カ所の捕鯨基地と捕鯨処理場が存在し、日本の「日本水産株式会社(Nippon Suisan Co. Ltd)」、「林兼(Hayashikane Co.)」、「鮎川捕鯨(Ayukawa Whaling Co.)」、「遠洋捕鯨(En-yo Whaling)」という4大捕鯨会社が運営していた。

色丹島に集結する日本漁船(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)
色丹の捕鯨処理場に水揚げされるクジラ(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)
豊漁と安全を祈る恵比寿神社とクジラの肋骨の鳥居(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)

 ソ連は日本から千島、樺太を獲得したのち、1948年までに色丹島、新知島、幌筵島、択捉島に捕鯨工場を建設した。さらに、1949年から1954年にかけてピョートル大帝湾にも工場を建設し、鯨肉の加工とあわせてクジラの肝臓から濃縮ビタミンAも製造した。また、1948年に「国際捕鯨取締条約」を批准し、国際的な捕鯨規制にも積極的に参加した。

ソ連捕鯨船「タイフーン(Тайфун)」(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)
捕鯨砲を撃つソ連捕鯨船「シュトルム(Шторм)」の銛士
(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)

  極東の捕鯨を担った「クリル捕鯨船団(第二捕鯨船団)」は、アメリカからレンドリース法によりソ連太平洋艦隊が受領した24隻の掃海艇のうち、10隻を捕鯨船として転用することから始まった。これらの船は金属製船体を持ち、排水量714トン、全長56.24メートル、最高速度15ノットであり、機動性に優れ捕鯨に適していた。船内は快適な居住環境が整えられ、最新のレーダー機器や魚群探知機、捕鯨砲も搭載されていた。

クリル捕鯨船団(第二捕鯨船団)初代団長ニコライ・マルティノフ
(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)

  掃海艇の改修作業は、アナトリー・ラヴロフ技師の指導のもと行われ、資材不足の中で、1年で10隻を完成させた。捕鯨船の船名は、「ヴユガ(Вьюга)」、「ブラン(Буран)」、「ムッソン(Муссон)」、「パッサート(Пассат)」、「プルガ(Пурга)」、「タイフーン(Тайфун)」、「ウラガン(Ураган)」、「シュトルム(Шторм)」、「シュクヴァル(Шквал)」、「ツィクロン(Циклон)」など、ソ連太平洋艦隊によって名付けられた艦名をそのまま踏襲した。その後、ラヴロフは「ウラジオストク」や「ダリニー・ヴァストーク」などの捕鯨母船の建設も監督した。そしてこのクリル捕鯨船団の団長にはニコライ・マルティノフが任命され捕鯨船は逐次増産される。

ソ連鯨工場でのクジラ解体の様子(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)
ソ連鯨工場でのクジラ解体の様子(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)
ソ連鯨工場でのクジラ解体の様子(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)
ソ連鯨工場でのクジラ解体の様子(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)
ソ連鯨工場での鯨肉の塩づけを作る様子(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)

 捕鯨船を操る船員には、巧みな技術が求められた。なかでも航海士には捕鯨の最中でも、潮流や海深を正確に把握し、荒天でも対応出来る操船能力が求められた。そして、戦争で減少した男性に代わって、その役割をソ連人女性が担うこととなったのである。クリル捕鯨船団の歴史には、ソ連海軍の軍人で捕鯨船「シュトルム」の船長を務めたヴァレンティナ・オルリコヴァなしには語ることは出来ない。彼女の経歴ついては過去投稿『ソ連漁船の女船長「ヴァレンティナ・オルリコヴァ」』を参照してもらいたい。

オルリコヴァ船長(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)

 当時の彼女を知る部下は彼女のことを次のように語っている。

 「当時、女性の船長は非常に珍しく、彼女たちには伝説や噂がつきまとっていた。私の勝手なイメージでは、オリルコヴァ船長は『がっしりした体格の女性』で、大声で、口調も荒々しい人物を想像していた。しかし、実際の彼女は、華奢で上品な女性だった。短い髪に穏やか声、聡明で知的、そしてユーモアも持ち合わせていた。彼女は乗組員にとって親しみやすい存在であり、率直で、驚くほど落ち着いていた。船内の意思決定においては独断的であったが、一度も声を荒げることもなく、乱暴な言葉を使うこともなかった。しかし、必要な時には、男性の船長でも持ち合わせていないような、並外れた強力な精神力を示すことがあった。」

女性航海士 ヴェラ・クズミニチナ・ミツァイ
(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)
女性航海士 アッラ・エフレモヴナ・レズネル
(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)

 クリル捕鯨船団における女性船員については、彼女以外にもヴェラ・クズミニチナ・ミツァイ(Вера Кузьминична Мицай)、やアッラ・エフレモヴナ・レズネル(Алла Ефремовна Резнер)、リディア・イヴァノヴナ・コチェトコワ(Лидия Ивановна Кочеткова)などが船長、航海士として活躍していた。彼女たちは、1947年にウラジオストク水産技術学校の航海学部を卒業した同期だった。また、捕鯨船「ムッソン」と「プルガ」の女性通信士として、ナジェージダ・ニコラエヴナ・ザバルダエワ(Надежда Николаевна Забардаева)とヴェラ・スピリドーノヴナ・ゴルロワ(Вера Спиридоновна Горлова)も働いていた。

1955年の色丹島鯨工場での最後のクジラ水揚げ(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)

 1950年代になると、ソ連の捕鯨は経済的合理性とクジラ保護の観点から、沿岸捕鯨から遠洋捕鯨への転換が議論された。1951年、クジラ研究者から千島列島で若く未成熟なマッコウクジラが多数捕獲されている現状が指摘され、極東のクジラが乱獲により減少しつつあることが報告された。また、1955年には、千島列島近海での捕鯨捕獲量が政府の計画を下回る見込みであり、クジラの個体数減少によって捕鯨が困難な状況にあることも報告された。この影響で、1956年の色丹島の捕鯨工場に始まる工場閉鎖が相次ぎ、最終的に1964年までに全ての工場が閉鎖されクリル捕鯨船団(第二捕鯨船団)の活動は終焉*を向かえた。

--* 遠洋捕鯨を含むソ連の極東捕鯨が完全に終結するのは1970年代--

参考資料
Vladimir K. Arseniev Museum of Far East History "Вторая Дальневосточная китобойная флотилия".

表紙画像(引用:アルセーニエフ沿海地方州立博物館)

おわり


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