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【超相対性理論】作為の功罪を聴いて

作為については、いろいろあるのだけれど、、
今回は子育てを通じで私なりに感じたことをまとめたいと思う。

「私(親)」と「娘7歳と息子5歳(子供)」の間で起こる作為について考えてみた。

作為的な行動には、2つあって
①受け手が心地よく感じる、ポジティブ作為
②受け手が違和感や嫌悪感を感じる、ネガティブ作為

作為的な行動に対してなぜ2つの反応があるのか、、
①結果をコントロールしようとしておらず、お互いの方向性が同じ場合
②結果をコントロールしようとしており、一方的な思いになりがち

「作為の功罪」では、作為的な行動を受けた場合の話が多かった気がするが、自分の行動を振り返ると、作為的な行動を日常的に行っているな~と改めて実感。

特に、子供たち対する会話の節々に感じました。
(なんか、、めちゃ反省、、)

小学校1年生の娘には「宿題やったの?」「宿題終わってから、遊びなさい」とよく言ってしまうのだけれど、、これは作為とは違うかもしれないけれど、結局は彼女の行動をコントロールしようとして発した言葉で、その言葉を聞くと、だいたいは「宿題めんどくさい」「やりたくない」と答えが返ってくる。

「作為の功罪」の中で、ポジティブ作為には、「同じ方向性」というキーワードがでてきたので、その事について考えてみた。

「宿題やったの?」の中には、以下のような気持ちがある。
・宿題やってないと親のメンツがたたない
・宿題やってないと授業についていけなかったり、子供自身が怒られりるかもしれない
・日々の宿題をこなすことで、社会に出たときに必要な知識を身に着けてもらいたい
などなど。

子供の視点で考えてみた。
・今別の事に夢中
・疲れていて、気分がのらない
・なんで勉強が大事なのかわからない
など?

あーあ、、
方向性は全然違う事がよくわかる。

じゃあ、どうすればこのやりとりに関する「もやっと感」を払拭できるのか、、

まず、「私(親)」と「娘7歳(子供)」では視点(視座)が違うのでは?
という気づきがありました。

例えば、親は10階建てのビルの5階から景色をみて、その言葉を言っているけれど、子供は地上にいる状態。
10メートル向こうからくる車の様子を親は確認できるが、いろいろな建物があり地上にいる子供たちは車の存在を確認できない。

これは、「車」の例えだけれど、「勉強」も同じような構造で説明できる気がしている。

つまり、そもそも視点(視座)が違うので、同じ方向を見ることができない者たちは、分かりあうことができないのか、、となってしまうけれど、

「私(親)」は「娘7歳(子供)」の視点に移動することはできないのか?
「娘7歳(子供)」は「私(親)」の視点を理解することはできないのか?
もしくは、お互いの間をとるような共通の新たな視点を生み出すことはできないのか?

もし「共通の新たな視点」を共有できたら、どうなるのだろうか、、

私たちは常に移動していて(体も精神的なものも)、毎回同じ視点にいることは難しいのだけれど、大まかな方向性はお互いの気持ちに寄り添いながら合わせていくことはできると思う。

私でいえば、
・宿題をすることは、将来子供たちにとって大事なことだという事を伝え続ける
・「今」すぐ宿題にとりくめなくても怒らない!ある程度子供のペースに任せ寛容な対応をする
・イライラが続く場合は、なるべく余裕を持つよう心がけて生活を送る

資本主義経済の中で生きている私は、子育てという長期の資本に対してどう向き合うか、、一度しっかり考えた方が良いかもしれない。
すぐに答えはでないし、子供たちもあっという間に大人になっていってしまうけれど、、間に合うのか、、

ポジティブもネガティブもあるのが人生だけれど!
できるだけポジティブ作為で生きていきないな~と思いました。

だって、そっちの方が自分も気持ちいいはずだから。

超相対性理論、面白い!!

また、感想が書けたら、その時に感じた思いを書いていきたいです。

ではでは。

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