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発達を区分することと、その区分でテキスタイルを捉えようとすること

 「発達障害という名称は、生来的に示す言動や認識に対して、その特性から分類し、医療の対象として認定した物である。僕はこれを脳のタイプに対する分類名称と理解している。」と、こころとそだちクリニックむすびめの田中康雄氏は述べる。(こころの科学 227号 発達障害の支援をつなぐ・発達障害を背景にもつ不登校児童・生徒と家族への支援)
 普遍的ヒトとしての、正しいとされる脳のタイプは決められいない。はずであるが、現代社会には概してそのような、正しいとされている脳のタイプというか、振る舞いのようなものが、確かに存在している。それは社会通念的な善悪感に基づいている様であり、倫理的、と言う言葉や、道徳的、という言葉にも裏打ちされながら、たしかにわたしたちの意識に存在している。小学校三年生の道徳の授業ではすでにそのような通念は教え伝えられており、じわりじわりと発達の中に忍び込んでくる。
 本来、発達は個々の特性であり、プラタナスの迷彩柄みたいなパターンや、ナナホシテントウの点々の位置の個体差みたいに、ある程度許容されて良さそうなものである、という気がする。そのようにした特性の分類、脳のタイプに対する分類名称としてのそれぞれの個性は、それとして皆が認める柔らかさと強さを持つよう務め、さまざまなハブを有した形の世界を作っていく事が好ましい。
 しかし現代社会ではあまりそう宜しくはいかない。本来特性であるべき倫理観や道徳観の過多は、欠如や怠惰として厳しく取り扱われ、配慮の外でずさんに扱われる。そうした状況では、望まれる正しさを、特性の故に持ち得ない人たちは、回避と撤退を余儀なくされているケースが多分にある。

 田中氏は同じ出典において、「右に倣えということが、実は根拠のない安心感を抱かせる。ー中略ーたったひとりでその流れに反逆することは、相当の覚悟と勇気がいる。ゆえに自分の判断に日々不安と恐怖を抱き揺れることもある。至極当然である。」と、特性をもちながら回避と撤退を余儀なくされた心理を丁寧にひろい、「とりあえず、あなたの今の判断を僕は支持する、応援したい、というメッセージをその子に伝えようとするのが僕の役割である」とつづける。

 テキスタイルデザインというジャンルに、覚悟と勇気が無くなったのは、つまり、社会通念と相混じるかたちで形式化していって、それを来ていれば安心、それを着ないとおかしい、という象徴となったのは、いつからだろうか、と想像する。
 書籍「布と人間」の中では、このようなクバ人の敬虔なエピソードが記される、「クバ人は、ラフィア織物だけが埋葬の装いとして適当なものであると信じている。何人かのインフォーマントは、もし伝統的な織物を身につけていないと、イルエエミにおいて死者が既に死んでいる親戚に認めてもらえないだろう、と言った。」つづけてその理由としてラフィアが何世紀ものあいだに枯渇せずに生み出しつづけられている資源であることや、食物、通貨などへの転用も含めてクバの最高支配者の富の中心部分を形成してきたことを紹介しながら、「こうしてクバ人は、いまだに葬礼の時にラフィア布を選ぶのである。なぜなら、それは安全性と継続性の力を秘めた象徴であり、少し前に無くなった人のコミュニティーに生者を結びつけるだけでなく、生者同士を互いに結びつけられるからである」と結んでいる。(パトリシアダリッシュ・来世のために装うーザイールのクバ人のラフィア織物の生産と使用)

 こうした、ある地域と民族との地場繊維を通した価値観の形成は、至る所で見られる、が、テキスタイルや衣服の規格化とともに価値観ごと消えたか、形式だけがのこり、価値観をうしなったまま行動様式に漂っているかのどちらかである。葬礼で黒のネクタイを締めることに、どのような象徴性が継がれてきているかを説明できる人は、すくなくとも葬礼のなかで黒のネクタイを締めて溶け込んでいる者の中にはいない。価値観の喪失それ自体に問題があるわけではない。しかし、そうした価値観の喪失に対してどうするのかによって、意味は生じうる。(「精神病それ自体に意味があるわけでない。しかし、精神病に対してどうするのかによって、意味は生じる」フランクル\生きる意味を求めてp93)

 もはや意識的に見渡せばありふれた、ともすれば近しい者が、親しい人が、なにより自分自身が当事者になりうる/なっていることが容易に想定される、障がいと呼ばれている分野に向かっていく覚悟と勇気は、クバのラフィアへの認識のごとく、明文化されないまま、社会の意識のなかで統一されないまま、ここまで来てしまった感がある。
 なんとか風だったり、こう決められているから、とか、清潔感、みたいなばっくりしたなんとなくの価値観で製造されているテキスタイルや衣服には、すでにコンテキストは無く、そこには社会的無意識の下で育まれたパターナリズムと、ある種のルッキズムが通底しているだけである。
 脳のタイプの名称分類と同じような感覚でそれらを選択するには、反逆する覚悟と勇気が必要となる。自己表現とは真逆の、内在性に向かっていくテキスタイルのあり方が、これからを生き、包括的革新性を求めていく世代には必要となっていく。

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