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読書メモ2023-23 『彼岸の図書館』

青木真兵・海青子
『彼岸の図書館-ぼくたちの「移住」のかたち』
2019、夕書房

奈良県東吉野に移住し、自宅を「彼岸の図書館」として住み開きしている青木真兵さん・海青子さん夫婦の、様々な人との対談の記録や随筆をまとめたもの。
二人とも内田樹さんの教え子ということで、価値観は非常に近い。内田樹さんの登場も多め。
自宅を図書館として開く、最高じゃないか。
やりたいぞ。やろう。人生の目標がまた一つ増えた。


半農半Xという場合のXは集団内で「余人を以ては代え難いこと」であるべきだと思う

p.21:内田樹

→これは対談者の内田樹さんが常々書いていること。本来社会・コミュニティにおいては、それぞれがそれぞれの得意分野に特化していったほうが都合がいい。100人の村でみんなが同じ仕事をしたって何も意味がない。しかし都市では皆が皆同じような能力を求められていて、しかもそこにある種の序列(主に賃金による)がある。もっとそれぞれが、自分の「余人に以ては代え難いこと」が何かを考えるべき。


3・11以降、若い人たちの地方移住が地殻変動的に始まったけれど、それは、自分たちが依存していたシステムの思いがけない脆弱性に気づいて、このシステムはもう長くは続かないだろうと直感したからだと思う。その人たちは3・11で、「平時モード」から「非常時モード」に切り替わったんだと思う。~3・11の後にも「平時モード」のまま生きている人と、こんな生活いつまでも続くはずがないと見切って、「非常時モード」に切り替えた人に二極化したと言っていいと思う。

p.30~31:内田樹

→ 他人と話していてずっと感じていた違和感はこれだったのか、と膝を打つ。「今の状態、社会、日本、世界はヤバイ」と思っているか思っていないかの違い。ヤバいと思っているから色々考えたり、新しい生活の仕方を模索したり、移住したりしようとしているけど、別にヤバいと思っていないなら、これまで通り・親世代までが良いとしてきた方法を選択するのが合理的だし、賢い選択ということになる。なぜ今でも大企業やら公務員やら銀行やらを志望する人が多いのか不思議で仕方なかったけど、それは「平時モード」だからなんだろう。でも、なぜ「平時モード」を保てるのだろうか。


今は原始時代以下だって鷲田さんは感じたそうだ。原始時代なら目の前の川から水を汲めばいいし、生きている植物を採れば食べられる。でも今の時代では、それができない。

p.32:内田樹

→ 3・11を受けて哲学者の鷲田清一さんが言っていたらしい。その通り。現代のほうが発達している、人類も社会も文明も進化していると思っている人は多い。しかし、そうではないと思う。現代のほうができないことは多い。電力や外部に委託できることが増えただけ。いざその電力が止まれば、現代人の能力は原始時代以下。そして周囲の自然環境も、原始時代より遥かに退化している。少しずつでも、それらを取り戻していきたいと思う。

生身の身体を支えることのできるライフスタイル

p.33:内田樹

→ 自分で米野菜を作ったり、鶏を飼ったり、水を汲める場所を見つけておいたり。そうやって、いざ大きな地震とかで電気が止まって都市機能が停止しても自分の体を維持できる仕組みを組み込んだ生き方。
現代はこの真逆を進んでいて、時間と体力を換金して、全てをお金で交換するライフスタイルになっている。


日本でも過去に一度、都市から農村部に社会活動の中心が移った決定的な時期があるんだけれど、それは鎌倉時代なんだよ。〜鎌倉時代になっていちばん変わったのは、「田舎」に政治的・経済的・文化的中心が移動したことなんだ。鎌倉仏教や武道や能楽のような、それ以後の日本文化の骨格になるものがそのときに成立する。

p.34〜35:内田樹

→そういった見方で歴史を見たことがなかった。非常に興味深い。それまでの都は奈良だったり大阪だったり京都だったりと、いわゆる当時の都市圏だったけれど、鎌倉というのはド田舎なわけで、そこに都を移し国の中心にするということの意味と影響について考える必要が確かにある。その特殊な遷都によって、都市的な=グローバルな=中国伝来の文化ではない、土着の=ローカルな=日本的な文化が発達していったという指摘もおもしろい。


商店街って、それぞれの店が相互依存してるんだよ。~だから、商店街がつぶれたのは、お店の人たち自身が「一円でも安い物を買うのが消費者の義務である」という市場のルールに服従するようになったからだと思う。~多少高くてもお隣から買わないといけないの。そうすれば、お金が商店街の中をぐるぐる回るでしょ。そんなことをしても儲からないと思うかもしれないけれど、落語の『花見酒』でもそうなんだけれど、二人で同じ小銭をやり取りして、お酒を飲んでいると、~人が寄ってくる。その人たちが「一杯おくれ」と言ったときにお酒が残っていれば、この商売は成功なんだよ。~商店街に利益をもたらすのは、この「通りすがりの人」なんだけれど、彼らが「通りすがる」ためには、商店街の店が開いてなければいけない。

p.40:内田樹

→うーむ、なるほど。「お金をまわす」というのは坂口恭平さんもたびたび書いていて、それは少し違う論旨なんだけど、通じる部分があると思う。自分が払いたいと思える相手にお金を渡す。それを続けていくと、お金の流れができる。と坂口さんは書いている。これはつまり、そうやって好きな人のためにお金を使っていると楽しそうな雰囲気が創られて、そこに人が集まり、それがお金を生んでいく、ということなのではないだろうか。
この落語「花見酒」は、養老孟司さんが『バカの壁』で統計を住重視する現在の経済を「花見酒経済」と言って批判するときにも使われていて、ひたすらお金をまわした結果統計上は経済が活性していることになるが、実際のお金の量は変わっておらず、しかし酒は減っていく、これじゃダメだろう、という論旨なのだけど、「外部」の存在があればこの「花見酒経済」でも大丈夫、ということになるのだろうか。しかし地球規模の経済を論じるときは、それ以上の外部がいないのだから「花見酒経済」で良いわけがない。ローカルな話だから適用される主張ではある。


人文知が要求されるのは、混乱期なんだと。~社会が安定していて順調なときには人間って、株価がどうかとか、今朝の体重は何キロだとか、そういう数値的に考量可能な、目先のものに「ものさし」を当てるようになる。ところが非常時になると、この先何が起きるかわからなくなる。そうなると、ものの見方が大づかみで、根源的になる。国民国家が液状化してきたら、どうしたって「国家って何だろう?」という問いが現れてくる。~だから「実学の時代」というのは「平和な時代」ということなんだよ。

p.43:内田樹

だから、今、政府や財界が「人文学は要らない」と言うのは末期的な症状だと思うよ。人文学というのは非常時の学問だから、移行期や混乱期や激動期を生き抜くためには絶対に必要なものなんだけど、それを「要らない」と言い出した。~これは彼らが正常性バイアスに呪縛されていて、今が移行期・激動期だという現実認識そのものを失っているということなんだよ。末期的なんだ。

p.44:内田樹

→ 普段から文系=人文社会学のほうが重要な・上位の学問で、理系=自然科学はその下に位置する、人文科学の元にある・人文科学の制御下にある学問だと思っていたし、実学志向とか言って文系学部をなくしちゃう政府や大学だったり、「文系は食っていけない」とか平気で行っちゃう人に対して違和感を感じまくっていたけれど、それをきれいに言語化してくれた、という感じ。本当に内田さんは、危険なほどに言語化能力が高い。
人文学は非常時の学問。いい言葉。そして、自然科学は平和な時代の学問。これもいい言葉。


どこに住んでも一緒だというのは、暮らすとか生きるとかいうことが今や抽象化しちゃったということだよね。不動産屋の物件情報を見ると~条件がパーツ化されているじゃない。~そう考えると、絶対に作れないしパーツ化できないのは山や川、森といった自然や人、ということになる。

p.56:鈴木塁

→ これは移住先を探している身として刺さる。でもその通りなんです。人口密度や人口減少率なんかで見比べたって何もわからなくて、結局大切な、その地を選択するときの根拠になるものっていうのは、パーツ化できないもの。だから、行けばわかるし、行かなければわからない。


脳をデータ化して身体を機械化し、制限のない世界へ飛び出したいっていうのは、男性の欲望なんじゃないかな。その発想をベースにいろいろなルールが作られてしまったから、ぼくらはロボットのように働いているのかもしれない。

p.58:鈴木塁

→ 現代のアメリカ的資本主義経済は、構造的にできるだけ強く・速く・頑丈なものを求める。理想的な会社員とは、できるだけ休まずに長時間働ける決断を間違えず行える人間(そしてできるだけ給料が安くていい=お金を必要としない=あまり食べない人間)。それって、ロボットじゃん、という話。そんな、ロボットを理想とするような社会で人間がそこを目指して心も体も壊しながら頑張っているなんていうのは、どう考えたってディストピアである。もっと人間的=自然的=女性的=”弱さ”や“不確定さ”に合わせたような社会設定ができないものだろうか。


結局、現状をなるべく変えずに自分たちの都合のよいようにするために数字を使って説得しているだけだと思っちゃう。〜ぼくらは今の都市での生活、つまり「数値化しやすい生活」に依存しすぎているし、それが当たり前と思い過ぎている。

p.75:青木真兵

→「都合よく説得するための数字」というのは、コロナ禍を経た我々にはさらに刺さるのではないだろうか。散々ニュースの数字に踊らされ、結局今はほとんどの人が気にしていない。私たちは数字を信じすぎてしまうきらいがある。数字で示せることの方が上位の正しいものだと盲信してしまっている。これが盲信、一つの信仰のようなものであることにもう少し自覚的にならねばいけない。


「それしかない」と思わされている部分がいろんな場面で多いんだな、と。本当にそれしかないわけじゃなくて、思わされている。

p.76:青木真兵

→ これは常々思っていたこと。みんな、「それしかない」と思い込みすぎている。なぜ就活をする?なぜ就職をする?なぜ公務員になりたがる?なぜ仕事を辞めない?なぜ休まない?なぜなぜなぜ…
こんなことがたくさんある。だから私は、「こんな生き方もあるんだよ」と身をもって示そうとしている。


それまで家族や近隣で「自給」されてきたものが、「購入」というプロセスを経て「商品化」されていく。これがあらゆるものを画一化する近代化の大きな特徴です。

p.80:青木真兵

「自給」は、必要なものを必要なだけ作ることを意味します。基準は「ちょうどいい」かどうか。

p.81:青木真兵

→ 自給の範囲を減らして購入対象とさせること。市場経済の価値観で見れば、それは“正しい”。そうやって、あらゆるものは「商品化」されて近代は発展してきた。物だけじゃなくて、教育も医療も福祉も娯楽も結婚や恋愛すらも商品化され、カタログの中から選ぶものになってしまった。そして「自分に合ったものを作る」という発想は失われて、「この中から一番良さそうなものを選ぶ」というマインドになった。生きることに対して受身になった。


ぼくも凱風館のようなものがほしい、と思った。それはつまり「個別解」ということです。〜人の共同体を形成するような場所のあり方を自分でもいつかやってみたいんです。〜メタの部分で「凱風館」を真似するというのは、誰もができることではありませんが、普遍的な価値を個別に展開する大きな挑戦だと思っています。

p.89:光嶋裕介

→ 凱風館というのは、内田樹氏の住居兼仕事場兼合気道の道場。住み開きの一種で、自分の生活・仕事の場を開いて、そこに学生や地域の人や道場生などが出入りすることで、交流や出会いが生まれ創造性が高まる。作者青木真兵氏も、それを受けて自宅を図書館として住み開きし、それを「マイ凱風館」と呼ぶ。それぞれがそれぞれの凱風館を持つという発想は素敵。私も住み開きを考えている身としては、そう思っている人が他にもいると知れて自信に繋がった。


ぼくはフェニキス人を研究する中で、ローマは舗装されているけど、フェニキアは「けもの道」というのが、すべてのマジョリティvsマイノリティの議論に当てはまると思っていて。

p.99:青木真兵

→ マジョリティがしっかりしているからこそ、マイノリティはカウンターカルチャー足りうる。現代に強度のあるカウンターカルチャーがないのは、メインストリームがそもそも貧弱だからでは?という問いかけ。


人文知の成り立ちに立ち戻ると、やっぱり土に根付いて生活した人間が抱いた問いから発信すべきじゃないか、と。

p.102:青木真兵

変に楽観するわけでも現代を悲観するわけでもなく、ただ淡々と進むというのがポイントなんだよね。〜人生はそもそもコントロールできないことだらけ。その予測不能な偶然性も含めて、しっかり受け止めたい。

p.104:光嶋裕介

→ どうしてもどちらかに寄ってしまう凡人の身ですが、この“淡々と進む”は境地として目指したいところ。目的やゴールがあってもいいけど、別になくてもいい。


辺境で変形していったモダニズムに関心がある。日本には中国やアメリカの辺境であり続けているという文化的土壌があるけれど、似たものをヨーロッパにおけるポルトガルやフィンランドに感じる。

p.106:光嶋裕介

→ 内田樹氏の『日本辺境論』にもあったが、辺境の独自性というのがある。日本は明治以降ずっとメインストリートになろうとし続けてきているけれど、辺境の国らしく辺境さをうまく使っていけばいいのではないか。辺境だからこそできること、メインが辺境から学ぶことも、少なくないと思う。

いずれすべての先進国で経済成長が止まる。そして、産業構造も雇用状況も劇的に変化する。そうなると、先進国は第二次世界大戦のときみたいに、ナショナリズムを煽ってもう一度世界大戦を始めるか、あるいは定常経済に移行するか、その二つしか選択肢がない。

p.121:内田樹

→ 世界大戦か定常経済か。世界はもっと、定常経済について考えるべきだと思う。定常経済となった時にどんな問題が起きるか。それは本当に問題か、かつてはどう乗り越えていたのか。それを真剣にシュミレートして、歴史から学ぶ必要があると思う。世界は今のところ、「ナショナリズムを煽ってもう一度世界大戦」の道を進んでいる。アメリカやヨーロッパの極右政権、日本・中国・韓国・北朝鮮の動き、もちろんロシアとウクライナの戦争も。右肩上がりの経済成長を諦めさえすれば、誇張でなく世界はもっと平和になるのでは。


かつては国民全体が〜未来予測を共有していた。でも今は、誰も未来予測を共有していない。〜政府が、未来について考えることを拒否しているからなんだ。だから、一人ひとりが自己責任で未来像を描かなきゃいけなくなった年後の日本がどうなっているかがわからなければ、どう生きるべきかは決められない。

p.124:内田樹

これからの日本社会がどうなるかについて、ある程度の見通しを持っていないと、ぼくたちだって、何をしたらいいのか決められないでしょ。どういう職業を選んだらいいのか、どこに住んだらいいのか、どこに住んだらいいのか、どういうライフスタイルを採用したらいいのか……日本がこれからどうなるのかがわからないと決めようがない。

p.125:内田樹

→ 自分で未来を描く。楽しそうじゃない。みんな、それぞれの未来を描いてそれに向かっていけばいいのに。でも、多くの人は、今と変わらない日本が10年後もあると思って、今まで良いとされてきた道を選んでいる。都市→田舎の変化が鎌倉時代の特徴だというのがあったけど、今は戦国時代でもあるのだと思う。確かな頼るべき中心は既になく、それぞれがそれぞれの理想を掲げ未来を描いて国を作り、共鳴した人たちが集まってくる。


自分の持っている資源を他人と共有することによって風通しの良い社会を作っていくことが今すごく大切だと感じている

p.191:青木真兵

→ 出し惜しみをしない。流れを止めない。これは坂口恭平さんとも通じるものだと思う。青木さんの場合はそれが「彼岸の図書館」で、内田樹先生の場合は「凱風館」で、坂口さんは「生き方の公開」なんだと思う。


トマス・ペインの「コモンセンス」は、十三州で独立派と反独立派が乱立する中、アメリカを独立に導いた重要なパンフレットだと思うのですが、〜そういうみんなに共通する感覚(コモンセンス)をプラットフォームとして形成すれば、これからの社会や村の新しい形が見えてくるんじゃないかと。

p.269:青木真兵

ジェファソンの場合はイギリス国王に対する憤慨に満ちた文章になってはいるんだけど、基本にあるのは「あなただってわかるでしょう?」ということ。「お前を弾劾するぞ!」というのではなくて、〜マグナカルタというプラットフォームまで戻っていって、これ、お互いが共有している基盤ですよね。だとすると、あなたたちがやっていることは、この共有基盤に照らして間違っているじゃないか、と。

p.269-270

プラットフォームをつくり、相手が論理的思考をすれば、自分たちと同じ結論に達するはずだという、相手の知性への信頼を失わなかった。

p.270:内田樹

プラットフォームとしてはコンテンツじゃなくて、容れ物のほう、マナー(作法)が需要だと思う。

p.270:内田樹

→ ただ真っ向からぶつかる・対立するんじゃなくて、相手との共通認識・基盤=プラットフォームを確認して、対話にもっていくこと。相手を同じ人間として尊重したクールな方法だと思う。人間に対して肯定的。見習いたいところ。


相手との違いをことさらに強調するのではなく、対立する二者を内包する「周り」に目を向け、「全体」の中で微調整していくことにこそ、理性的な意思を使っていきたい。矛盾したり相対立するものを並存させ、折り合いをつけて少しずつ進めていくことが最重要課題

p.278:青木真兵

→ 本書にまとめにあたる文章。名文だと思う。優しい作者の人柄が出ている。私はもっとぶつかってしまうし、違いを強調するし(同時に同じ点も見えるけど)、対立者・はみ出し者という役割に魅力を感じてしまうけど、それも、どちらもを内包して社会を作るという前提があってこそではある。

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