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ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』第4章「ジェンダーは燃えている —我有化と転覆の問い」要約
「セックス」や「ジェンダー」という用語を別の意味に転換してしまう可能性?
例えば、「おい、このnoteを読んでいるそこのオマエ!」と、私が一方的に呼びかけたとき、この「おい、オマエ」という「呼びかけ」は、読者である皆さんを(ある意味で)服従化された主体へと導いてしまうことでしょう。また例えば、「そこの▲▲!(▲▲は侮蔑語を表します)」と、侮蔑語を使用して呼びかけたときには、先の「呼びかけ」以上に、読者である皆さんを恐怖に陥れつつ、私とはなんの関わりも無かった皆さんを私と言語を使用する空間(本文では「言説的・社会的な領域」)へと強制的に引きずり込む効果を持つことでしょう。
バトラーは、このような類の「呼びかけ」や「侮蔑語の使用」を通じて権力の諸関係に巻き込まれるような事態を足場としながら、既に私たちを占有しているような呼びかけ(or侮蔑語)を(むしろ)占有し返し、侮蔑語の意味を別様にしてしまう可能性を導くことは可能だろうかと、問いかけます。そしてバトラーは、この問いを「セックス」や「ジェンダー」といった用語にも適応させ、これらの用語のもつ意味を別様なものへと転換する可能性を探究します(そしてこの可能性の探究こそが、この章のメインテーマになっています)。結論から先に言えば、そのような意味の転換・反転は可能であり、バトラーによると、それは具体的には①「反復の力」、そしてその「反復」によって引き起こされる、②「両義性の空間」(「セックス」や「ジェンダー」といった用語の、異性愛主義による一義的な意味合いを一旦受け入れる:服従化すると同時に、その意味化を失敗させる別の意味を作り出すこと:主体化が同時におこなわれる空間)というものによって可能になるというのです。
では、その「反復の力」「両義性の空間」とは一体どのようなものを指すのでしょうか。バトラーは「反復の力」「両義性の空間」を、『パリは燃えている(邦題:パリ、夜は眠らない)』(1990)という映画を参照しながら議論しています。なぜこの映画なのかと言えば、この映画は、クィアな人々が全滅することをあらゆる方法で計画している文化において、(先述した意味での)服従化と主体の生産とが同時に起こっている映画として理解できるからだとバトラーは言います。
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