学校とパノプティコン


お疲れ様です。

私は教育系の大学院にいっていたのですが、久しぶりにミシェル・フーコーの監獄の誕生を思い出したのでそれをもとに話していきたいと思います。

ミシェル・フーコーとは哲学者であり教育哲学では必ず出てきます。
この人はパノプティコンという監獄からこの社会は常に誰かに見られている囚人のような考え方が一般人にも適応でき、誰もが素直に思う考えが外に出なくなっている、と論じています。

学校現場でも決まった時間に決まったことをやり場所も指定されており、やらないと教師から罰が与えられる。

これがフーコーのいう監獄が一般化された状態、ということです。

私は学校現場を自由な場にしていいのか、とよく考えるのですが一定の規律や一定の秩序がなければ、それは自由だけがまかり通りとても危ない場所になると感じています。

監獄になるから地獄になるとは思いません。

しかし、監獄になってしまうと自分の意思や意見は言えず権力者の言うことだけを聞くだけになってしまいます。

誰かに見られてる、監視されている、という考えは自己を消したり、上に逆らえない思想にしてしまいます。

社会に出ても通用する人間の育成 が学校現場の役割なのであれば監獄にする必要はあるでしょう。

しかし、学校現場の役割は人格の形成です。

ということは
監獄になっている学校は変えなければいけないのではないでしょうか。

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