
アイドルに実力が必要だった時代
松田聖子の歌を良いと思った事はないけれど、それでも記事で書かれている事には同意する。
つまり、ピッチ補正が出来なかった時代に地力で勝負をして来た人達は強い。
個人的には、深津絵里や南野陽子あたりが、決してうまくはないけれど好きと言える曲がある。
高橋由美子や酒井法子や小泉今日子や森高千里はちゃんと音楽に向き合っていた印象。
肝心なのは、ファンも彼女らをガチの歌手とは思っておらず弁えて応援していた事。
程度によるけど上手くないけど好き——と現実を見ていた。
それが90年代後半から00年代前半のピッチ補正の時代が到来すると地力の無い歌手の過大評価が増えた。
その結果、張り上げるだけの歌や、仮に音痴だった場合の批判が過剰になった。
あえて名指しするが、浜崎あゆみは当時から酷かった。
確かに音程は外していないが、張り上げしゃくるだけの耳障りな騒音を毎日どこかで発信していて、当時の自分は吐き気を覚えた程だった。
それが今では老いと地力がバレて批判されている。それはそれで消費者の反応も如何なものかと思う。わかる人間には当時からわかっていた事で、鈍感なガキが騒いでいただけだろう。自身の黒歴史を他責するな。
最近だと、YOASAOBIの歌手が批判された。自分は彼女らに関する知識も興味も無いので賛否の両方を見かけて、ほええ…と馬鹿面を晒してただけだが、良い機会なので彼女の生歌と思われる動画を見てみた。
ううん、素人ではないけれど感動するほど突き抜けるものもなくて、よくわからん。
当時若かった自分すら浜崎あゆみの良さを理解が出来なかったし、いつの時代も流行ものはわからない。
彼女に限らないが、今の時代はテイク数を無限に重ねて最高のテイクを地力ですとネットに晒す世代だから、賛否も両極端になりやすいのだろうと思う。
ただ音楽は科学ではなく芸術なので、本当に悪いものなら誰も見向きもしないから、多様性の一部として受け入れられる土壌は褒められて良いのかも知れない。
例えば声優の花澤香菜の初期はそれはもう酷いものだった。
それが彼女は努力を重ねて彼女なりのスタイルを確立した。
無論、ブレまくりの生歌ではあるけれど、声優やアイドルの利点はこれだろう。
職業が歌手ではないから初手が不味くても再挑戦の機会が与えられる。
そこで練習を重ねて成長する時間を許される。
歌手という名目だとそれが許されずチャンスが少ない。
音楽1本に絞ったほうが音楽活動のリスクが高いというのは皮肉な話である。
自分は、媚び路線とは異なる地力を見せつけた中島美嘉を好きだったのだが——
——2010年に耳管開放症が明らかとなり、その結果音痴となってしまった姿を見た時は、何とも言えない気持ちになった。
音楽は芸術であり地力があれば死ぬまでやれるだろうと勘違いされているが、体力に依存するし、聴力は加齢に比例して衰えるし、毎日聴覚を酷使するので難聴になりやすいし、スポーツと同じで基本的に年齢依存の能力だと知られて欲しい。
その上で努力を怠らず幸運にも健康に恵まれた者だけが10年20年と死ぬまで音楽を続けられる。
これは結果論でもあるが、自分は菅野よう子やミシェルルグランやムラヴィンスキーのような長期的な音楽家を好きになる傾向がある。
流行に興味がなく、最新と新鮮を勘違いせずに温故知新で戦い抜いてる作家や作品を好きになりやすい。
だから流行で消えていく人を見ると悲しくなるし、流行に過ぎないとわかっているのに盛り上がっているのを見るのも正直つらい。
どんな分野にも言えるが、デジタル技術を使いこなす能力を持ちながら、デジタル技術に依存しない地力を備える努力を惜しまない、そういう人が好きだし、恐らくAI時代すら生き残るのはそういう人なんだと思う。