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20230224 - 救い

11月から制作していた曲がもうすぐ完成しそうで、本当に安心している。
展開一つに1ヶ月かけることがザラで2日に一回プロジェクトファイルを開いては10分悩んでは閉じる、という生活をしていた。ちなみにこの間4曲完成している。どれもこれもかなりジャンルは違えど高クオリティなレベルを少しずつ維持できるようになってきたかもしれない。作曲はたのしい!たのしいか?

今作っている曲はかなり自己肯定に対する皮肉かもしれない。個人的に11月以降は人生の中でかなり危機に瀕した時期だったので常にワンチャンをそれに注ぎ込んでいた気がする。してはいるが、結果として求められている、求めていた曲になったとは正直思っていないが、かなりやりたいことをやって、それをしっかり一曲のうちに入れ込むことが出来たと思っている。それ表に出たらこちらにも追記しておくこととしよう。

救い。自分は世間よりかなりインターネットに救いを求めている人間だと思う。小学4年生で3DSにYouTubeをDLしてから人生が45度ぐらい傾斜を持ったと思う。もともとは文化祭の出し物の元ネタを見て研究するのが目的だったのに。いつのまにか実況プレイ動画を見漁るようになっていた。ふざけんな。このころはTwitterを始めた時のようにメールアドレスも持っていなかったからもちろんアカウントは所持していないし、コメントもできない。助かった。黒歴史量産機になるところだった。

それから救いを求める対象が音ゲ―、作曲と移行していった。段々、生み出す代償を払って救いを不特定多数に求めだすようになったから、ある意味悪質だ。でも、音ゲ―の時は単純にスコアを詰めることに楽しさを覚えていたし、作曲を始めた時を音が鳴る、ピークをつんざくような歪んだキックの音に一喜一憂していた時期もある。それに喜べなくなってしまって、本当はそれを肯定できることが救いであった、という裏付けかも。

今、救いの対象を持てていないかも。何を持つことで、自己を肯定する行動の一連を自分は救いとみなしているがそれを何に向けているががわからない。今いろんなことに少しずつ首を突っ込んで、じわじわ周知してもらえる機会を作ろうとしている。EPもそうだし、リミックス制作などもその一つだ。自分がそれを救いと出来ていないのは、単純にこの活動を勝負としてしまっているからだろう。現代の同人音楽コミュニティは若年化がどんどん進んでいて、高校生ながらプロデューサー顔負けに作品を投稿するのがやや当然とされているような気がする。自分もまあすぐさま年齢に関するアイデンティティを失ってしまって、かつまだ適当なPCを携えられてすらいない。そんな中大人しく曲をのうのうと作っていられるわけもなく、とにかく発見されにくいタイプの作曲をしているため常に全てにおいて勝負を張ってゆくしかなく、それは今年始まって大変痛感していることの一つだ。これを聞いていると「いや趣味なんだから自由にやったって良いじゃん(笑)」という幻聴が聞こえるが、大変まったくその通りである。黙ってろ。ただの負けず嫌いだ。勝手きわまりない逆恨みだ。それを創作に向けてるだけ健全だろう。勝つぞ。何に勝とうとしてるのかわからないし、勝ったところで一つ人生が動かせるわけでもないが、それが己にとっての救いになるなら全力を注ぎこむし、勝手に誰かの救いになれたならまあ、立派だろう。ご立派に、救いのために今日も創作で頭を悩ませ続けることにする。


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