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生活費がなくて倉庫で日雇いバイトもした話

2017年。34歳。僕は生きていくお金に不自由して日雇いのバイトをした。当時の収入は400万ちょっと。生きるだけならどうにかなるが、無理して買ったマンションのローンを払いながら家族の病気などをケアするにはお金が全く足りなかった。

その当時のことを書こうと思う。


会社はどうしたのか

僕は仕事では絶好調だった。技術を身につけて顧客からの評価も高く、インフラエンジニアとして確かな手ごたえを感じていた。自社でも人脈は広く、人間関係も順調だったし期待もされていたし、仕事は順調だった。しかし、全く昇給しなかった。短期案件が多く自社待機も多かったせいか、ボーナスが削られることが続いた。ていうか、どんどん減った。
また、家族のケアのために残業もできなくなった。例えば保育園の送り迎えは強力な時間の縛りがある。しかし、現場派遣の仕事しかないSESの会社なので、そういう要望は叶えられないという。そんな条件で常駐先は見つけられないと。
お金はないし、家庭のことがどうにもならない。
上司は私の待遇について人事にかけあってくれたが、どうにもならなかった。私は転職活動をすることを伝えた。
ここからデッドラインすれすれの冒険が始まった。

お金が残ってない

転職活動は書類作成、応募、内定まで2か月くらいで終わった。
残りの全財産が1800円くらいだった。全財産は本当に全財産で、口座の中もすっからかんである。あと1社余計に受けていたら、交通費が捻出できていなかった可能性すらある。結構危なかった。よい条件での内定がもらえてなければ、家族を養うお金は尽きる。絶対に稼げるようになるからと大見えを切ったせいで逃げ場もなかった。内定をもらう前に退職を伝えてしまっていたので、家計をごまかす余地もなかった。失敗したら腹を切って死のうと思っていた。無事に仕事が見つかったからこうして生きているが、紙一重の結果だったと思う。

無駄なお金を一切使えない有給消化中は暇だった。子供をママチャリにのっけて遊びに出かけた。2時間くらいかけて寒川神社というところにもいった。

次の月から新しい会社だったが、それまでの生活費が足りないので日雇いバイトを探すことにした。まずは、日雇いをするために登録をして説明を受けなければならないという。横浜駅まで普段なら電車で行く距離だが、自転車で行った。
服装や規則など、こんなことを説明されなきゃいけないんだと思ってたら、後から来た人はかなり丁寧な説明をされていた。相手を見て不安な人には対応が違うらしい。

そしてママチャリを酷使しすぎたせいか、パンクしてしまった。
いよいよもってバイトをしないとパンクを直すお金がなかった。惨めだった。

倉庫のバイト

品川駅からバスに乗せられて、倉庫に行く。やっすい時給だからテンションはあがらなかったが、IT業界に来たばかりのテスターの仕事も時給1000円(正社員なのに)からスタートだった。その時も今も仕事を選べる立場にない。

広い倉庫から商品を出してピックアップして運ぶ。一言で言えばそれだけの仕事。僕は段ボールを空けて商品を出して倉庫の棚に並べるという仕事をした。それをピッカーの人が必要分集めて持っていく。
僕の役割はカストと呼ばれていた。どういう意味かは知らない。倉庫の単純作業は途方もない量の段ボールを繰り返し地道に開封するとか、心が無になる仕事だった。元々商社で倉庫にいたことはあったので、肉体労働は平気だ。むしろ、クレーンの操作やフォークリフトをやりたかったが、無資格なのでそういう仕事はなかった。

若さと老いの明暗

僕みたいな年代、社会人の年齢の人は男女問わずどんよりとしている。相当の事情がなければ日雇いバイトをしないだろう。一緒に働く男性は引きこもりのような、人間に怯えるような目つきをしていて、女性も表情はなく髪も傷んでいてまったく身なりに構っていないような服装だった。誰のどの瞬間も笑顔はない。倉庫では社員のみ表情と人格がある。

同じバイトでも若者は明るい。若いほど僕らとは反比例して明るい。
もう10万も稼いだとか、旅行に行きたいとか、バイトが終わったら飲みに行こうとか、男女ともに非常に楽しそうだ。世の中に絶望するどころか、これから広がる明るい未来に希望を持っていた。若さの可能性はまぶしい。

現実世界では絶対に交わらない人種が一緒に働く空間が、どうにも不思議な心地だった。同じ仕事をしているが、交わらないままだ。倉庫の仕事中に会話する機会などほとんどない。会話がないことは鬱屈した僕たちにとっては、他者と交わらないことはメリットでもある。だが、品川へ移動のバスの中で若者の会話が聞こえる。楽しそうな彼らは上昇気流のようなものを纏っていて、僕たちはその逆だ。このまま気圧の谷が生まれて台風が発生してしまえばいいのに。

倉庫には何も必要ない。身体が動けば誰にでも務まる。人に怯える目の男性も倉庫の仕事の経験は豊富で、僕よりはるかに頼りになる動きをしていた。遅くなれば残業扱いで手当てが出るのだが、こうした場でも早く帰りたいのは多くの人の願いらしい。僕も早く帰りたかった。誰もが無口できびきびと働いていた。

30代半ばにもなって目先のお金がないということは大変なことだと思った。若いときはお金がなくてもあまり気にならなかった。
友達と同じ買い物ができない、友達と遊べない、そんなことはどうでもよかった。しかし、結婚式に呼ばれて行くお金がない。呼んでも来てもらえないとなったときに、お金は必要だと思った。生活するだけが生きるお金ではない。
家族ができて、入院したとき、病院に払うお金がないとき、家賃に手を付けて生活基盤が揺らいだ時、そして今。どう考えてもお金は必要だ。

死んだ目をして働いている人を見て、そんなことを考えていた。

数日で辞めたバイト

身体がきついからと僕は数日でそのバイトを辞めた。
「もう一日入ってくれませんか」と電話が来たが、体がきついと断った。

本音を言えば、あの悲壮的な空間が耐えられなかったからだ。無表情の大人か、明朗な若者のどちらかしかいなければ続けてもよかったかもしれない。その両者の対比を見せられることが苦しかった。
僕は世の中に絶望していないが、未来を夢見るほど楽観的にもなれなかった。もっと正直に言えば、自分の未来を直視したくなかった。これからもし稼げるようになったとしても、今まで薄給で働いていたツケを清算するだけでも何年かかかるだろう。

話と違う現職

待遇のいい新しい仕事を始めた後も、家庭での状況は悪化した。そして家族が救急車で運ばれて入院するまでになった。私は毎日定時で帰るし、入社と同時にもらった有給も使いきった。

試用期間が6か月だった。上司からこんなことを言われた。

「佐々木さんは試用期間後に正社員にしてあげられるかわからない」

私は全く活躍できてなかった。家族のこともあって定時で帰るしかなかった。甘えまくっていたので、万が一首になってもしょうがないと覚悟をした。

評価が低い私は内定金額に書かれた収入をもらえなかった。次の年ももらえなかった。だいぶ苦しい時間が続いたが、それでも前職よりマシだったし、食らいついて踏みとどまるしかなかった。
しかし、社内で私は完全にいらない子だった。私にできる仕事もほとんないし、成果も出せなかった。
今まで経験した下請けの仕事とは何もかも違うし、技術的にも経験がないことばかりで何もできなかった。

起死回生の逆転

死の淵からよみがえるほどにサイヤ人は強くなる。

ドラゴンボールの孫悟空とまではいかなかったが、僕も生存本能によって巻き返しに成功した。それが僕の人生を変える伝説的な出来事となる、インフラ勉強会という技術コミュニティ創立である。

なんもわからん初心者向けに特化した勉強コミュニティは、完全オンラインでありとあらゆるインフラ技術の疑問を潰すことに成功した。そこに関わった主要メンバーはキャリア的にほとんど全員成功している。私も優秀な仲間と毎日勉強した結果、一人前の技術力は身に着いたと思う。ユニークな仲間がいてすごく楽しくなったし、世界も広がった。

技術登壇が毎日あって、毎日みんなで一緒に勉強をした。誰だってそんなことをすれば強くなれる。バズったSNSの力は大きく、あらゆる知見が集まっていた。
マネジメント能力もここで身に着けた。ゼロから数千人の組織を創設・運営した経験を持つ人間なんて日本に何人もいないだろう。

バイトをする必要がなくなった

挫折した人は強い。失敗すればどうなるか知っているからである。
一方で、挫折経験は評価されるとは限らない。
お金がなくて苦しんだとか、中退したとか、受験に失敗したとか、とにかく経歴に傷を持つと選考で門前払いされることがある。

ひどい扱いをされると人はそれを忘れないものだ。さらにチャンスが少ないからこそ貪欲に成功に執着することができる。挑戦して失敗したって失うものはない。

物事がうまく回ると景色が変わる。勉強のやり方を覚えた僕は新しい技術の習得で苦しむこともほとんどなくなった。冒頭で苦しんでた頃から数年たったわけだが給料も200万くらい上がったので少なくても差しあたっての生活の悩みは消えた。照明がない部屋や壊れたテーブルや単身者用の冷蔵庫など、必要だったけど長年買えなかったものも買った。

本を書くようになって、ささやかな本業以外の収入もできた。本当にささやかだけど。もう倉庫でアルバイトをすることはないだろう。地元の青森では冬になると出稼ぎに行く人が多かったが、現代の首都圏では本業のほかに期間労働をする人なんてほとんどいないだろう。これを読む人の中にもおそらく誰もいないだろう。

たった5年ちょっとで、多くのことが変わった。プラスのノウハウは全部本に書いた。しかし、僕の根っこを支えるのは生活費もままならず、惨めで苦しい暗黒の記憶である。人生がどう転ぶかなんて紙一重である。今は毎日が楽しい。この心地よさを守るために、惨めな自分がもう出てこなくていいように、前向きに頑張るのである。

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