知的障害者施設で働くということ
おはようございます。269(つむぐ)です。
まだまだ何者でもないアラフィフの主婦です。
優しい気持ちで回る世界が作りたい!と日々考えながら、普段は重度知的障害者通所施設で働いています。
なんと今日は、とうとうわが施設にもコロナ陽性反応者が出てしまい、濃厚接触者が特定されるまでは施設閉所となってしまいました。
近隣の同じような施設の間では、うちの施設だけが今まで全く陽性者が出ていなかったことが「奇跡だ!」と言われていたのですが、さすがにここまで広がると(私は大阪在住です。)、いつ誰が陽性反応が出てもおかしくはありませんよね。
ただ、施設の利用者さんは『変化』が苦手な方がとても多いです。この事態をどう受け止められるのか…保護者さんの対応は…パート職員の身としては、今の段階では知る由もありません。
『変化』についてはまた別の機会にお話しできたら…と思います。
さて、今日は「私がなぜ知的障害者通所施設で働くことになったのか」をお話ししたいと思います。
誰か興味あります?
何者でもないアラフィフのおばちゃんのパートに出るきっかけなんて💦
でも、私が夢を見つけた道しるべは、今後夢を叶えるために残しておこうと思います。
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短大を出て、大手の警備保障会社に入社しました。「働く」ということが何たるか、何もわかっていないフワッとした人間でした。
バブルが崩壊し、就職率100%という夢のような時代が消滅し、就職氷河期時代に突入したあの頃、フワッとしていた私は、父親のコネであっさり大手の会社にポンッと就職できたのでした。
まさに『お茶汲みOL』をバブリーダンスの平野ノラさんが着ていたようなスーツを着て(あんなに派手じゃないですよ…)、やっていたわけです。
当時、パソコンというものは、『会社に入ってから初めて触るもの』だったのですが、私は、情報処理の短大で秘書科というところにいたので、成績は悪かったもののワープロは扱えて、ブラインドタッチなるものは習得していました。
『ただ文字入力ができる』というだけで、「パソコンできるの?」なんて称賛の言葉で迎えてもらえるなんて、今では考えられないですよね。
そこで私は、『人の役に立つ喜び』というものを初めて味わったように思います。
学生時代は、母のパート先(アルバイト面接が嫌だったので)の倉庫で仕分け作業や、ファミリーレストランのウェイトレス(先輩が怖かった)、スーパーのレジ打ちのアルバイト(しょっちゅう金額に誤差を出していた)をしていましたが、どれも『誰かの役に立っている』という実感が得られるものではありませんでした。
しかし、『役に立つ喜び』を感じ、社会というものに少しずつ慣れてきた2年目に上司が代わり、途端に私への風当たりは強くなります。
新しい上司は、「コネで入ってきたフワッとしたお嬢さん」は、お嫌いなようでした。
女子社員の休憩時間、パーテーションだけで区切られたスペースで、笑いながら愚痴大会。冗談交じりに「辞める」なんて言葉も飛び交っていた楽しい会話を上司は聞いていたようです。
私は個室に呼び出され、
「自分がどういう立場なのか分かって、辞めるなんて言っているのか?」と、コネで入ったくせに何の文句があるのか?とお説教されてしまったのです。
ただこれだけで、社会に出るということが、働くということが、どういうことなのか分かっていないフワッとしたお嬢さんの心はポキッと折れてしまいました。
それからの出社は、苦痛しかなく、さほど苦にしていなかった通勤の満員電車も楽しかった休憩時間も「早く家に帰りたい…」としか思えなくなっていました。
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知的障害者施設で働くということ と言っておきながら、昔話で終わってしまいました💧
見出しで使わせてもらった「雨上がり」の写真に話を着地させたかったのですが、また次回。
今日もあなたは、あなたらしさをありのままに…
最後まで読んでくださり、ありがとうございます(^^♪