第55回忘バワンドロライ「左腕」
先輩たちが帰った後の特別練習。
強豪校から乞われるほどの実力があるチームメイトとのハイレベルな練習は、心地よい緊張感のある濃密な貴重な時間だ。この時間は帝徳にだって負けていない。
その貴重な時間に、最近は練習にも熱を入れている要くんが今までにないポンコツ送球をした。何事かとホームの要くんに目をやると送球した腕が三塁を向いて軽く伸ばされている。
は? まさか左手で投げた?
千早くんが「バッ……!」と声を上げる前に、藤堂くんが三塁ベースを投げつけていた。
「ナメてんのかコラァーーっ!!」
「え?」
「え、じゃねえっ! 何だその心外だっつう顔はっ」
藤堂くんの怒りはもっともだ。ナイター設備もない都立高校は日が暮れると練習できなくなる。要くんのおふざけに付き合っている余裕はないのだ。
「そーゆーとこ……じゃないかな」
声を荒げている藤堂くんにゆるやかに微笑む要くん。あ、これは……
「俺の天才的ひらめきと天才的発想で葵ちゃんのイップスは驚異的回復まっしぐらだ。なぜなら俺はアイアム天才イズ智将。そして俺はまた啓示を受けた」
頭から湯気をだして雑な智将に飛び蹴りをしそうになっている藤堂くんを抑える。
千早くん何とかして。
目で訴えると千早くんは大きくため息をついた。
「要くんは頭がいいですからね。俺が前に“左打者は一塁に近いから有利だ”と言ったのを覚えていたんでしょう」
要くんがパチンと指を鳴らした。
「ビンゴ」
めちゃくちゃ腹立つ。
なんだそのドヤ顔。藤堂くんをけしかけてやろうか。
「そして頭のいい要くんは考えたんですね、三塁に送球するなら左手で投げたほうが早いんじゃないかと」
「さっすが瞬ピー! そうなんだよ、部室に左手用のグローブを見つけたんだよ。キャッチャーミットではないんだけどちょっとやってみ……グボッ」
僕の腕を振りほどいて藤堂くんが飛び蹴りを決めた。
もう日も落ちてきた。今日の練習も終わりだな。
コブラツイストをかけられて助けを求める要くんを無視して片付ける。
「やはり…智将の記憶を取り戻すにはもう少し時間がかかりそうですね」
千早くんがため息混じりにつぶやいた。
先輩たちの練習メニュー、それぞれの課題チェックや指導。居残り練習や清峰くんのピッチングメニューもほとんど千早くんが1人で考えてくれている。
野球理論にさほど詳しくない僕たちは千早くんに頼り切ってしまっている。要くんが記憶を取り戻してくれれば負担は減らせるのに。
「それにしてもまさか左手とはね」
メガネを押し上げてそう笑う千早くんはとても大きく見える。
「兄貴が言ってた」
そうだ、清峰くんのお兄さんも少しは気持ち悪いけれど野球には詳しい。
今の状況について何かアドバイスをもらえるんじゃないか。
清峰くんが言葉を続けた。
「千早は3回に1回、左手を使ってるタイプだって」
さっきまで大きかった千早くんが「ファ〜〜〜」と声を出しながら小さくなって膝から崩れ落ちた。