第47回忘バワンドロライ「○○の秋」
清々しい朝、まさに秋晴れの朝。
帝徳高校グラウンドでは朝練が始まろうとしていた。
「千石さんおはようございます、千石さんっ」
「今日は涼しいですね千石さん」
「秋になりましたね千石さんっ」
「千石さんの夏が終わりましたよ」
「秋になりましたセカンドの千石さん」
「“千石さん秋を楽しむ”って書いたら“千秋楽”ですね、千石さん」
「千石さんの秋が始まりましたよ千石さん」
瞬時に後輩たちから名前を10回も呼ばれた千石今日路は「おはよう」と答える。
「俺の名前を連呼するな」
よく通るこの声を合図にランニングが始まる。
いつの間にか毎朝の約束事となっていた。
帝徳の朝練は千石今日路がいなければ始まらない。
東京を代表する強豪校の野球部員であっても、高校生であるかぎり昼間は授業を受ける。
甲子園常連といわれる強豪校の野球部員ならば、授業も受けずテストも名前さえ書いていれば次第点を与えられていたという時代も過去にはあったのだが、令和の今の時代にそんなものはない。東京を代表する強豪、帝徳野球部のレギュラーであっても授業を受け、教養をつけ定期試験を受ける。それは野球以外の人生を照らす道しるべとなってくれる。彼らの前にはたくさんの人生の道が開かれている。
「千石さん移動教室ですか」
「化学室ですね千石さん」
「最近は実験でアルコールランプを使わないんですよ千石さん」
「そうですよね千石さん」
休み時間に廊下を歩いていると1年生たちが声をかけてくる。
「名前を連呼するな、俺は野球だけしていたい」
「体育ですね千石さん!」
「ジャージも似合いますね千石さん」
「ですよね千石さん!」
となりを歩く陽ノ本が聞く。
「今の子たちって野球部だっけ?俺見たことないんだけど」
「バスケ部だな、練習しているところを見たことがある」
千石は無表情のままだ。
「千石さんトイレですか」
「2回目ですか千石さん」
「千石さんうんこですか」
「大きいのが出たらいいですね千石さん」
「うんこなんですか千石さん」
「おいみんな!セカンド千石さんがうんこだぞ!!」
見たこともない1年生が名前を連呼している。
「貴様らうんこを連呼するな」
無表情に千石が答えた。
「千石!今日は食堂か千石」
「千石は定食大盛だよな千石?」
「唐揚げが一番だよな千石は」
「千石今日のA定食はエビフライだってよ」
「千石!!」
食堂では見知らぬ3年生たちからも名前を連呼される。
本人は慣れたものだ。
「名前を連呼するな」と言いながら食堂チケットを買う。
「千石はすごいね、こんなに名前を呼ばれても平気なんだ。絶対大丈夫だね」
隣でそう言う陽ノ本をチラッと見てチケットを渡しに行く。
「千石くん、甲殻アレルギーは大丈夫?千石くん」
食堂のオバチャンだって例外ではない。
千石今日路の両親は舞台俳優である。
母・明日花はそこに立つだけで劇場中の視線を釘付けにする舞台の天才であった。
今日路以上にクセのある父・今日太も観客の目を捉えて離さない鬼才である。
皆が名前を連呼してしまう千石今日路。
皆は気づいていない。
地味で特に目立つはずでもない千石の姿をいつの間にか視線で追っていることを。その違和感をごまかすために思わず名前を連呼してしまうことを。
千石今日路自身もまだ気づいていない。
だがその日はまもなくやって来る。
表現せずにいられないその日がやって来る。
そして今の野球にかけている情熱と、野球だけではない今の毎日の生活がその糧となることを。