第65回忘バワンドロライ「千石今日路」
母は「セミになれ」と言われてセミになる人だった。
父は存在しない死神を周囲の者に見せる人だった。
舞台で演じる両親を持つ俺は、帝徳高校で甲子園を目指す高校球児だ。
帝徳野球部には個性豊かなチームメイトが揃っている。
気の強いショートや才能あふれる後輩、性格が正反対のダブルエースと、その二人をリードする捕手。バラエティに富んだメンバーのおかげで、「冷めている」といわれがちな俺の個性もそれなりに馴染んでいる。
雑談をしているときの表情と、試合で大事なバントを決めるときの表情が同じだといわれるが仕方がない。表情を細かく動かすのは得意ではないのだ。
母と父は視線の動かし方一つで多くの感情を表現していたが、残念ながら俺は両親と同じ人間ではない。「無表情」なのが俺の個性なのだろう。
入部してすぐに同級生の投手、飛高は自分に自信のないタイプなのだとわかった。
特に試合になると緊張して心拍数もあがるらしい。ピッチャーマウンドでテンパっている飛高に後ろから声をかける、励まして鼓舞した。
緊張状態にある仲間に安心させる言葉をかけるのは人間関係の基本だ。
だが、どれだけ褒めても称賛しても効かないので、圧をかけ怒ってみせた。
それでも飛高の心には届かなかった。
鼓舞して励ましてもダメ、怒ってもダメならば「死ね」というしかない。
「死ね」と言われてから本来持つ力を発揮する人間は統計的にも多くない。希少なパターンだがそれにより俺は一つの人間関係を学んだ。人間は奥が深い。
だが俺はそんなこともまた忘れるだろう。
「千石さん」
また名前を呼ばれた。
どういうサブルミナル効果が施されているのかわからないが、俺はいつも名前を呼ばれる。
「千石さん」
いつも名前を呼ばれるからメモリー部分に不具合が出ても自分の名前だけは忘れない。
「千石さん」
だがそれは自分の処理能力の低さを指摘されているに等しい。それに気づいたとき、いつもなら処理能力の限界になるとフリーズする俺のCPUに新たな領域が増えた。
プログラミングされていなかった新たな感情。
なるほど、これが「悔しい」か。
「名前を連呼するな」
初期設定になかったこの言葉を発した日、この日が俺の誕生日とされている。
この言葉以降、俺は自らの多くの言葉を学んでいった。
千石は毎朝、鏡の前で制服に着替える。
服を脱ぎ左胸のカバーを外し、全身をスクリーニングする。メモリー機能にある許容範囲の不具合は変わりない。まばたき動作の設定は4秒ごと。冷却装置も正常稼働している。
ヒューマノイド・インターフェース、有機アンドロイド1059号は【千石今日路】として生きている。
千石は鏡の中の自分を見つめる。
俺は千石今日路、甲子園を目指している高校球児だ。