第83回忘バワンドロライ「好き嫌い」
「オマエって世の中に嫌いなモンばっかだよな、好きなモンってねェよな」
ある日の昼休み、なんの前触れもなく藤堂が千早にふっかけた。
「なんですか、そのアニメに出てくるヤバい奴みたいな言い方は」
「好きなモンあんのか?」
「そりゃありますよ、たとえばこの……」
言いかけて、千早は手にしている紅茶を見て考えた。
俺が紅茶を好きになったきっかけは何だった? 大好きだった野球を嫌いだと言ったあのとき。他人の努力を認めず、自分自身を信じることもできずに一人で殻に閉じこもっていたあの頃。現実から逃げるように、空虚な時間をうめるように無理矢理に趣味を作って逃げていたあの頃。
あの頃の俺を救い、あの頃の俺を思い出させる紅茶など
「紅茶はあまり好きではありませんね」
「ふーん。いつもイヤホンしてんだから音楽好きだよな」
きっかけはいつだった? いつもポケットに入れているイヤホンで音楽を聴くようになったのは、いつからだ? 野球を嫌いだと言い、空虚な時間を埋めるようにイヤホンで周りの音に蓋をしたあの頃の象徴の音楽など
「暇つぶしに聴いてるだけで、そんなに音楽好きだというほどじゃありませんね」
「その趣味の悪りィ靴下は?」
あの頃に空虚な時間を埋めるように手にしたファッション雑誌はあの頃の、以下略だ。ンなもん、どうでも
「どうでもいいですね」
その言葉に土屋が反応した。
「そうなの? どうでもいいの? 僕は千早くんのさりげないセンスの良さにも憧れてるよ」
さすがです土屋さん、貴方は俺のことをしっかり見てくれている。
「でもまだよく知らない人に財布をプレゼントするのはやめた方がいいかな」
脚の速さはピカイチなのに、本当それ以外が残念で。本当残念です。
「千早くん、パンは好きじゃない? 駅前のパン屋さんのよく食べてるよね」
新しいキャプテンは優しいまなざしで皆を見ている。そうなんですここのパンは美味しいんです、今度山田くんのぶんも買ってきますね。
「まぁパンかご飯は食べなきゃどうしようもないか、好きとか嫌いって話じゃないね」
新キャプテンが堅実なリアリストであることは知ってました。ええ、知ってましたよ。人間食わなきゃ生きていけません。
「瞬ピー、野球は? 野球は好きじゃん?」
すぐに言葉が出ず思わず黙ってしまった。藤堂と山田が緊張のまぶされた視線を向ける。
「ハッ、別に……」
グイッと眼鏡を押し上げる。
笑止千万。好きも嫌いもあるか。
そこに山があるから登るのと同じ、野球があるからプレーをする。
全身を動かして、精密機械のように制御する。隙をついて消耗させて駆け回る。相手が「イケた」と思ったところを阻む。守りに入ったところを逆につく。まさかと思わせる走塁を見せつける。
ちょっと人より得意なだけで野球なんか好きじゃない。他にできることがないだけだ、好きなわけじゃない。
「別に好きではありません」
キッパリと言い切った。
「な、やっぱりオマエ世の中に好きなモンねェだろ」
何が面白いのか藤堂が笑っている。
その姿を尻目にオレンジティーを飲む。
野球だとか仲間だとか馴れ合いだとか、嫌いなモンばっかりだ。
あぁもう本当に、大嫌いなんですよ。