第2回 トリプルファイヤー愛とKing & Prince愛が共存する精神世界はこちらです選手権
第1回はこちら↓↓↓
分かっていたことだが、第1回目、まあー読まれなかった。
でも一応読んでくれた人はいるし、今後トリプルファイヤーを好きになった、キンプリ界隈とは無関係な人がタグ経由でやってきてくれることを願って書き続ける。
トリファイ好きには私のほざきは絶対寒いと思われるので、ひたすら真面目に読み解いていく。
先に断っておくが後半は妄想だ。
もう1回言う、後半は、妄想だ。
「おばあちゃん」 ―オレオレ詐欺という個の喪失
見出しのまんまだが、1stアルバム「エキサイティングフラッシュ」収録の「おばあちゃん」は、オレオレ詐欺の歌だ。
1:46という短さなのでぜひ聴いてほしい
正直現在の価値観に照らせばちょっと不謹慎だし、そもそも今はオレオレ詐欺ではなく特殊詐欺と呼ばれる。
まぁここ10年で一気に世の中の価値観が変わったということで、お許しいただきたい。
この曲、
で始まる。この時点でもう間違いない。オレオレ詐欺だ。
しかしこの曲には、オレオレ詐欺を(犯罪として)成立させる対話がない。
オレの一方的な吐露に終始する。
なおこう歌ったのと同じ口で、前回紹介した「パチンコがやめられない」を歌っている。
「オレオレ」だけでなく、「パチンコをやめた」件についても嘘(たぶん)を重ねる哀しみ。
パチンコやめてたらオレオレ詐欺に手を染めてねぇだろというツッコミも、そう突飛ではないはずだ。
そして私が思う、この曲の最重要ポイントはここだ。
最終段落、
「オレオレ詐欺」を、社会に個を黙殺された結果、誰とも分からない別の「オレ」に成り代わる行為だと定義づけている。
そのうえで「オレを否定しないでくれよ」と叫ぶのだ。
そして、おばあちゃんに対して肯定と期待を求めて終わる。
オレオレ詐欺、ダメ。
ダメだけど、それが「社会による個性の黙殺の象徴」であるとする発想、唯一無二だ。
「おばあちゃん」とは誰なのか
ところで、曲のタイトルにもなっているおばあちゃんとは何なのか。
もっと具体的に言おう。
歌い出しのおばあちゃんは電話口に出た見知らぬおばあちゃんとして、
曲後半のおばあちゃんは誰だろうか。
可能性としては2つある。
①(歌い出しに引き続き)電話口の見知らぬおばあちゃん
②自分と血縁関係にあるガチのおばあちゃん
まず、①だが、これはおそらく違う。
理由は、“期待していてくれよ”と懇願しているからだ。
①のおばあちゃんには、「オレ」に期待する筋合いは一切ない。
電話口だけの関係である①のおばあちゃんとは、電話を切って・切られてしまえばおしまいだ。
この先、期待という感情が発生する余地がない。
次に②。
①に対して、②の場合“期待していてくれよ”は筋が通る。
血縁関係のおばあちゃんとは、未来に向けても関係性が続き、そこに期待という感情が生まれる余地があるからだ。
“これからも迷惑かけるかもしれないけど”
これも未来に向けての関係性がないと成立し得ない。
よって、ここでいうおばあちゃんとは、②自分と血縁関係にあるおばあちゃん、のことだろう。
見知らぬおばあちゃんを騙している罪悪感から、自分のガチおばあちゃんを想起して心の中で詫びる、みたいな。
はい、話終わったね。
しかし。ここで私のお得意の妄想ターンが始まる。
私としては第三の選択肢、③概念としてのおばあちゃん、を推したい。
もっと言うと、「人ならざる存在」だ。
以下でその理由を述べていく。
「社会からの否定」に対抗するのが「おばあちゃんによる肯定と期待」でいいのか問題
この詞の中では、オレによる自己否定表現は多数あるが、第三者からの否定の表現はひとつだ。
それが、
ここである。
現時点でオレを否定している存在。それは
“オレの個性を生かせる受け皿”を用意してくれない、「社会」だ。
社会がオレを否定しているのだ。
それに続くのが
これはおばあちゃんへの呼びかけである。
社会に否定されても、おばあちゃんにだけは否定されたくない、期待されたいということだ。
ところが、だ。
社会からの否定に対して、救いとなるのがたった一人のおばあちゃんによる肯定と。
これでバランスが取れているのか。
オレがおばあちゃん子で、めちゃくちゃおばあちゃん大好きならわかる。
しかしこの詞の中でそれを裏付けるものがない。
<完全妄想ターン>おばあちゃん=人ならざる存在説
このスキを突いて妄想をぶち込む。
“オレの個性を~”で言及される「社会からの否定」に対抗できるほどの、「おばあちゃんからの肯定と期待」よりもっと大きなもの。
詞中では
と、「否定」と「期待」が対応する表現になっているので、「社会からの否定」に対抗するのは「社会からの期待」、と言いたくなるところだ。
しかし、社会からの期待というものが存在し得るだろうか。
答えはNOだ。
社会を巨大なシステムと見なすと、そのシステムに適合できず追いやられる、結果的に否定されることはあるが、期待されることはないからだ。
もう少し丁寧に説明する。
1.社会とはシステムである。
2.社会で起きる事象(否定)はシステムが稼働した結果に過ぎない。
3.社会システムに意思は存在しない。
4.期待とは、意思である。
5.よって、社会に期待される、ということはあり得ない。
※もし「期待」でなく「受容(オレを受け入れてくれよ)」であれば、社会からの受容は成立する。
社会システムの一部として組み込まれる、ということだからだ。
話を戻そう。
社会からの否定に対抗しうるものは、社会からの期待ではない。
では、期待の主体となりうる、社会ほど大きくかつ意思を持った人ならざる存在、とは何か。
神だ。
神に「否定しないこと(肯定)」「期待すること」を懇願しているのだ。
おばあちゃん=神と読み替え、頭から歌詞を読み返してほしい(著作権に配慮して切れ切れだが)
全体を通して読むと、「神への懺悔」「神への懇願」と言えるのではないだろうか。
(迷惑かけるかもしれないけど、はどうなんだというツッコミもあろうが。)
途中たぶん嘘はついているが、己の行為への罪悪感を吐露し、オレを否定する社会への怒りをにじませつつ、神に許しを乞うているのだ。
さらにもう1点別の角度から付け加えるとしたら、全体を通すと
オレへの自己批判
↓
おばあちゃんへの言い訳
↓
社会構造への怒り
↓
???による肯定と期待の要求
という流れになっている。
自分→他者→社会 と、感情の発露の対象がどんどん外に向けて展開し、かつ大きなものになっていく。
その先にある着地点が、おばあちゃんという小さな他者に戻っていいのか。
仮に最終的な感情発露の対象が神であった場合、
自分<他者<<<<社会<<<<<<<神
という不等式がきれいに成り立つのではないだろうか。
はい、後半もう完全に妄想であり、吉田氏に聞いたら絶対「いや…そういうわけではないっすね………」と低温で返されること請け合いだ。
正直自分でも、「いや、見ず知らずのおばあちゃんを騙している時に、肉親のおばあちゃんを思い出して罪の意識にさいなまれる、で止めとけばいいじゃん」と思う。
ちなみに、おばあちゃん=この世の全てのおばあちゃん説、
あるいは、なんの筋合いもないけど電話口のおばあちゃんに懺悔してる説も思い付いては居たが、1番突飛でみんなをビビらせそうなやつにしてみた。
トリプルファイヤーの曲には完全なる個人的妄想で突き詰めると、こうした人ならざる存在=神の気配を感じる曲が多々あり、「J-POPの歌詞を妄想協議会 神の手支部」所属の私としてはたまらないのである。
まあまあの字数いったので今回は「おばあちゃん」一曲で終わるが、まだまだやるからな。