再考「静寂のパレード」―夜明けと変容について
変容とか言っといて私は全く変容してない
8/16以降、私は「静寂のパレード」という半端なく味持ちの良いガムをずっと噛み続けている。
何と今回で、「静寂のパレード」がらみの記事を書くのは3回目だ。
何がここまで私を魅了するのか、自分では全くよくわかっている。わかりすぎている。
もう1か月近く考え続けているのだから。
今回もまた、これまでと別角度で「静寂のパレード」について考えていこうと思う。
本当に一切のおふざけなしで、その割に静寂濃度薄めなので、どこにも需要がない可能性は高いが、書きたいので書く。
タイトルにある通り、「夜明けと変容」について、「静寂のパレード」を中心にいくつかの曲を通して、その違いを見ていく。
なぜこれを書こうと思ったか。
先日“ネット上のなかよしさん”に、PK Shampooを勧められ(というか私が勝手に食いつき)、勝手にアルバムまで購入してしまった。
アルバム「PK Shampoo.wav」収録の「夜間通用口」という曲がとても印象的で。
そしてこれが、夜明けの変容に向かって夜を過ごす歌だったのだ。
割と短期間に夜明けをメインに据える曲を2曲聴き、またそれぞれの夜明けと変容の描き方が特徴的であり対照的でもあったので、少ししっかり考えてみたくなった。
加えて、これまでに自分が聴いてきた夜明けをテーマとした曲に思いが広がり、アーティストそれぞれが描く夜明けの情景の違いを感じたくなったのだ。
今回題材にする曲は以下の4曲。
1.夜間通用口(PK shampoo)
2.パール(THE YELLOW MONKEY)
3.強い気持ち・強い愛(小沢健二)
4.静寂のパレード(King & Prince)
姑息にも、静寂のパレードを最後に持って来てなるべく最後まで読んでもらえるようにした。
あともうプライドを捨てて箇条書きを多用していく。
それぞれについて、
■夜の自由度
■夜明けの描写
■変容の頻度
の観点で見ていく。
夜間通用口 -夜間通用口の向こう、光が見える
■夜の自由度・・・内面的には不自由
■夜明けの描写・・・“夜間通用口の向こう、光が見える”
■変容の頻度・・・一夜
「夜間通用口」の曲としての魅力は、
といった美しい詩的表現と、歌い上げる声とバンドの音のひずみ具合、そのバランスの妙だと思っている。
なので、魅力のあくまで一部分である詞を、さらに断片的に解釈していくことに非常に罪悪感は感じている。
先に謝っとく。
”月明かりに澄んだ街”や、”ファズギターに沈む星”など、たくさんの美しいものがありながらも、精神的な閉塞感を感じるのは、「夜間通用口」というワードが効いているからだろうか。
プラネタリウムのように、果てのある空にぽっかりと無機質なドアがあるような印象を受けた。
この曲における夜明けは「夜間通用口を抜ける」ことで、それに伴う変容は「君とさよなら」である。
肉体的には、たった一度、通用口を抜けるという行為はとても容易だ。
それを阻むのが、“月明かりばかり見ていた”り、“ロウソク色の夢が降る街で 星を数える、星を数える”といった、
夜に包まれていることへの執着である、という印象を受ける。
精神を反映した優しく夢のある世界を捨て、自ら通用口を抜けることに立ち向かい、変容を迎えるという、完全なる自由意志、自分次第の変容の曲だ。
パール ―夜よ負けんなよ 朝に負けんなよ
■夜の自由度・・・最も高い
■夜明けの描写・・・“目がくらむ朝に 七色に光った パールに埋もれて俺は溶けてゆく”
■変容の頻度・・・一夜
「パール」は、今回挙げた曲の中で最も夜間の自由度が高い曲である。
以前
で、「電車やバス等大きな公共交通機関は、運命の象徴」と書いた。
「サヨナラバス」「硝子の少年」、歌以外では「千と千尋の神隠し」の電車など。
対して、自分で操縦可能、かつ移動可能範囲も身一つより格段に広い自動車は自由の象徴といえよう。
この自由さに“不自由と嘆いてる 自由がここにある”という表現を重ねる吉井和哉、やっぱ天才よ…。
「パール」も、「夜間通用口」に近い、自ら夜明けに立ち向かい変容しようとする曲であり、またさらに能動性の強い曲である。
その能動性の強さが、以下のフレーズに表れている。
「ぢゃ」という表記からも、作詞者のここを聴かせどころにしようという意思を感じる。
夜よ負けんなよ~には、迫りくる朝への抗いと、自分を自由にしてくれる夜への肯定が表れている。
自らの意思で乗り越えられなかった夜明け(朝)を、“俺は溶けてゆく”つまり自我の敗北と位置付けている。
今回の曲たちの中でも一番、夜明けに対しトガった見方をしている曲といえよう。
強い気持ち・強い愛 ―長い階段をのぼり 生きる日々が続く
■夜の自由度・・・自由だが、環境に従順
■夜明けの描写・・・“美しい空 響きあう空”
■変容の頻度・・・
変容の頻度については、書き忘れではない。
この曲、実は夜明けに伴って変容する曲のようでそうではない。
順を追ってみていく。
まず、“ダンスをしたいのは誰?” “溢れる光公園通り” “夜をぶらつき歩いてた”のように、華やかな夜の渋谷を明るく闊歩するような情景が描かれており、夜を自由に楽しんでいる印象を受ける。
夜明けの描写。
とてもポジティブに夜明けをとらえている。
一方で、その先は“誰も見たことのない日々”と明確に区切られている。
ここがあたかも、変容の門であるかのように思える。
しかし、その後の表現からするに、これは単に時制の区切りなのではないかと感じられる。
長い階段は、おそらく区切られることなく続いている。
それを日々に重ねるということは、魂の変容はグラデーション的であり、自己は連続的な存在であることの示唆ではないか。
さらに、この2行、異なる表現だがどちらも生の先にある死に向かって生きる、という人生観を描写している。
長い階段と大きく深い河、古典的に表現すれば、天国への階段と三途の川だ。
キラキラした夜の街を自由に歩きながらも、生→死という道のりは抗えない一直線であるという、どうしようもない非力さ。
これを受け止めてなお日々をPOPに歌うオザケンの死生観が私は大好きだ。
静寂のパレード ―変わっていく 君も僕も
静寂のパレードのがっつりとした感想はこちら。参考まで。
■夜の自由度・・・低い
■夜明けの描写・・・”今日にさようなら”
■変容の頻度・・・毎日
この曲は前出の「強い気持ち・強い愛」との相似点がある。
まず、夜の描写
主体の静けさと対称的に、周囲の環境はきらびやかさを感じさせる。
”消えそうな夜”は、周囲の明るさ故に暗闇が無くなっているということだろう。
状況としては「強い気持ち・強い愛」に似ている。
また、パレードとは基本的に(折り返し地点はあれど)一方向に進むものである。
自らの足で歩いていて、自由度高く見せてはいるが、パレードの大きな流れの中、一人立ち止まることはできない。
そういう意味で夜の自由度を「低い」と表現した。
これもまた、自由に闊歩しつつも大きな人生の時間に抗えない、強い気持ち~の世界観とすこし似ている。
「静寂のパレード」で最も特徴的なのが、変容の頻度が非常に高いということだ。
毎日夜明けとともに死と新生を繰り返し、明確に変容していく。
そしてさらに“君も僕も”。
この曲で言う君=僕、そしてほぼ人類全体を指している(個人の感想です)、というのは先の記事で述べた通りだ。
「強い気持ち・強い愛」では、君と僕という一対の人たち(突っ込むとパートナー)が死に向かって生きる様を描いていたが、「静寂のパレード」はもう、全ての人間の生と死を描いている。
孤独な僕が歌う、人類の歌なのだ。
ここまで挙げた曲、徐々に個人から人間へと、主語が大きくなる並びになっている。というか、そう並べた。
夜の間の動きや思い、朝の先にあるもの。
同じ夜明けをすごしながら、それぞれの曲の主体たちは、
美しい夢に別れを告げたり、
迎えられない変容を渇望したり、
死というもっとも大きな変容に向けての小さな1段を登ったり、
あるいは避けられない変容を繰り返したり。
表現者の視点のユニークさと、そこから見えた世界を描き出す言葉の豊かさを、改めて噛み締めている
「静寂のパレード」に関して言えば、バリバリ現役の、まだまだ20台前半のアイドルが、かなり根源的な死生観を歌う。
そしてその曲が、アイドル自身の新生のタイミングでリリースするアルバムの第1曲目を飾る。
明るい曲調に反して、その事象に潜む覚悟は大きく、非常に挑戦的な曲そして曲順であると感じている。
名曲ぞろいのピースの中でも、この曲はひとつの大きな「門」であり、ここをくぐり抜けて私たちは新しい世界に連れて行ってもらっているという点で、最も重要な曲であると私は考えている。
そしてシンプルに、抗えない流れの中“歩いていく”と繰り返すその強さを、とても好いている。
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