夏生♯02
そう言えば今朝知らんホテルで起きたんだよね、と思い出したことを私は口にした。夏生は私に膝枕を提供しているけれど、スマホをいじるわけでもなく本を読むわけでもなく音楽を聴くわけでもなく、ぼんやりと冷蔵庫に貼られたごみ分別表か何かを眺めていた。いいよ続けて、と言われたから私は話を続ける。
「最近よく見る夢があるんだけど、私は昔人を殺したことがあってふとした時に気が付くの。ずっと忘れていたんだけど昔殺して遠くまで逃げてきて、警察もまだ気が付いていないの。誰にも疑われていないの。でも私だけが知っているの」
天知る地知る己知るっていうか……と続けながら頭がぼんやりとしてきた。昨日は薬の影響で卒倒していただけで、別に睡眠がとれていたわけではないらしい。歌舞伎町のホテルのベッドと同居人の膝枕じゃどう考えたって雲泥の差だ。貴族の枕だろうがこっちの方がいいに決まってる。
「私が人殺したことあるって言ったらさ」
どうする? と続ける前に夏生は答えた。
「そっかあ、って思う」
だって殺してそうだし、と彼は言った。
「そういう事情もあるのかもしれないなあと思った上で何も聞かないで家に招き入れて一緒に暮らしているのだし、現に俺はこの1年殺されていないのだからこの先も大丈夫なんじゃないかなあと思うし」と。
本当にこの人は揺さぶりがいがないなあと思った。
もっと私のしょうもない嘘や冗談で大げさに傷付いてほしい。びっくりしたりとか泣いたりとか怒ったりとか、そうやって感情を揺さぶられていてほしい。そうじゃなきゃ私と一緒にいたって何も楽しくないじゃないか。なんのためにこんな女を部屋に置いているというんだ。
私の存在を観葉植物か何かだと思っている? あ、それかロボロフスキーハムスターと思われてる? 見ている分には可愛い的な……。
「もしかしてだけど、私のこと可愛いって思ってる?」
私が訊ねると、夏生はキョトンともせずに「どちらかというと美人系じゃないの」と答えた。宇宙人対宇宙人だと波長が合ってしまって困る。一緒にいる理由ってそれひとつにつきるのだけれど、そのたったひとつでどれだけ私が救われてしまってどれだけ憎悪してしまったことか。
「そんな可愛い私が人を殺していたとして」
「ハイ、美人系なカフカが人を殺していたとして」
言い直された。
「私はある日それがバレて捕まってしまうかもしれません」
そう言った途端にグッと抱き寄せられた。無理やり起こされたものだから頭がぐわんと揺れてしまって一瞬目の前が白くなった
そんで抱き寄せられてみて思ったのは煙草くせえなあ。禁煙するって言ってたじゃん、私がいないとすぐ吸うじゃん、そんで隠す気ないじゃん、やっぱクソだなあ。と思ったところで、あ、コレ私の髪の匂いだと気付いた。煙草くせえと頭上で言われた。
「いなくなられたら生きていけないよ、俺」
こういう時こそ顔を見せてほしいのに、こういう時は絶対に見せてくれない。
「カフカとしか生きられないって証明したくせに無責任にいなくならないでよ。困る。昨晩だってこのまま帰ってこなかったらどうしようって気が気じゃなかったんだよ、少しは俺の気持ちも考えてください」
一言一言が甘くて、それは私への全肯定で、生きていていいんだとかここにいてもいいんだとかそういう優しさ的なむず痒さ的なものに包み込まれて、朝方掻き毟ってしまった手首を今更ながらに後悔した。
ピロン、と私の手の中から音が鳴る。
夏生が勢いよく私を引き剝がして「なんの音?」と私の目を覗き込んできた。
「言質とっておかないと、フられた時にさ、いろいろと責め立てたいじゃん」
録音を保存して、それをお気に入り登録してからスマホをダイニングテーブルの上に放った。
いなくならないでよはこっちの台詞なのだ。
私は勝手にフラッといなくなったりなんてしない、と言いかけて「いや昨晩いなくなったなあ」と思い直した。それでもここに帰ってくるという絶対的な自信があった。自分の帰巣本能に関しては過剰なまでに信頼を置いている。
それに比べて夏生と言えば、手を繋いでいなければ迷子になるくらいフラフラとしている。愛着とか執着とかそういうものがあるようでない。こだわっているものが品切れだったら柔軟に代用品を買ってしまえるくらい無頓着。「でもこれもいいよね」とかそれっぽい誤魔化しをしながら軽薄に乗り換えていく感じがして。
「少なくとも私はモテないけれど、あなたはモテる」
私が言うと、夏生はしばらく考え込んでから「ありがとう」と言った。その回答はどう考えても不正解だよと思いながら、そろそろ瞼が重くなってきたので目を閉じた。眠かったんだ、寝たかったんだ。っていうかここに帰ってきたかっただ。いざ夏生に抱かれてようやくほっとした。
ブーーーーーーンというクーラーの異音に怒ったのは、昨晩が初めてではなかった。前々から音がするね? と少しずつ話題に出していたのに、「そうかな?」「聞こえない」「俺は気にならないけれど」とかわされ続けてきた。
「俺は、じゃねえんだよ。なんで主語が自分なんだよおまえはよお」
昨晩の私はそう怒鳴り散らかして、近くにあったものを手あたり次第夏生に投げた。手あたり次第と言っても壊れそうなものとか投げたらいけないものは投げなかった。灰皿とかCDプレイヤーは破損が怖いし。
でも結構重量あるものも投げてしまったみたいで、夏生が呻いて座り込んだのを見てハッとした。やってしまったと思った。この人に今嫌われたら私は行く場所なんてないし生きていけないぞ、存在に赤色でバッテンを付けられてしまうんだぞ、そんくらい私のことはこの人が握っているというのに……いやでもこれ確実に嫌われただろ。もう捨てられるだろう。そう一気にグルグルとしだした私はもうどう取り繕っても無駄だと思い、なぜだか一気にまくしたててしまった。
「おまえが格好良かったのは大学生までなんだよ、これから先おじさんになっていく一方じゃんか、腹も出てくるだろうし皺も増えてくるだろうしおじさんになるだけなんだよ、現に生え際後退してんの気付いてんだろ、似合ってねえよ髪型、もうおでこがチラッと見えただけでみすぼらしいハゲなのもろバレでみっともないんだよ。目の周りもさあ皺出てきてさクマも全然取れてないしそれって加齢だよね、結局もうおじさんってことだよね。そんなおまえがこの先誰かから新しく好かれるなんてことは絶対にありえない。私だってもう嫌いになっていく一途だよ。なのにおまえはこの関係性を持続させる努力もせずにクーラーも直さないしクマも直さないしハゲも直さないし、本当AGA行けってクソハゲ、死ね」
昨晩の長台詞を思い出してハッと飛び起きた。
スマホをいじっていた夏生は「びっくりした」と棒読みで呟きながらスマホを伏せる。
「AGA行った?」
私が聞くと、「え、起きて第一声それ?」と彼は薄っすら笑う。
「行ってないけど、眼鏡はかけたよ」
似合ってないってさっき言われちゃったけど、と言いながら夏生は丸眼鏡をクイと両手でかけ直す。可愛いでしょ? と聞かれたので私はコクコクと頷く。
「大学生って感じする、Fランの。軽薄な。サブカル気取って女と寝ることだけが生きがいの。ていうか何も間違ってないよね」
ツラツラと出てくる言葉に特に意味はない。ただ思いついたことをポンポンと濾過せず口にしているだけ。夏生もそれは分かっているようでほとんど聞き流しながら「間違いない」と頷いてくれた。