『アンバランス』
この話は2019年11月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第145作目です。
トラベラーズノートとコーヒーとの関わりは深い。定番のオリジナルブレンドのコーヒー豆もある。その美味しいオリジナルブレンドを中目黒のトラベラーズファクトリーで淹れていただいてこれまで何杯いただいたことか。コーヒーをテーマにしたイベントも継続している。トラベラーズノートを使い始めてからその経緯をずっと見てきた。それだけにスターバックスとのコラボレーションを知ったときは驚愕だった。
PRADAとのコラボ製品が2019年9月にロンドンのみで発売されることをウェブサイトで知った。驚くより先にこれまでの限定品よろしく与り知らぬところで「転売祭」が一層賑やかになるなと思った。過日怖いもの見たさでオークションサイトというものをのぞいてみた。普段使いのノートの値段ではない値が付いていた。自身は旅をしないでトラベラーズノートに旅をさせて得られるものを得ようということなのだろうか。
PRADAと聞いて思い浮かぶのはPRADAの本国のイタリアではなく韓国。続いて航空会社時代の大先輩リーさんの上品で優しいお顔が浮かんでくる。
リーさんは韓国の予約課のマネージャーを長く務めていた。一緒に仕事をするようになったのはリーさんが韓国の機内サービスのマネージャー(ソウルベースの客室乗務員とソウル発のフライトの機内サービスの管理が主な仕事)を兼務するようになってからだ。
ご主人にもお会いしたことが何度かあったし、お子さんたちとも会った。成田空港でトランジット中だった息子さんとバッタリ会ったこともあった。
ソウルでの仕事の後で母が日本から合流し、リーさんに食事に連れていっていただいたことがあった。食事の後で引っ越したばかりの新居に招待してくださった。リーさんの人ととなりと同じように穏やかで上品な暮らし振りがうかがえたお住まいだった。床にものを置かないことが家の中が散らかるのを防ぐことを見て学んだ。
リーさんと一緒に仕事をするようになってしばらくの後、母にと白い箱をくださった。箱を開けると革のいい匂いが漂いPRADAの黒の長財布が中にあった。母はいただいた白い箱から出てきた財布が高級ブランドだったので驚いていた。
何気なくブランドの財布をくださったが、リーさんの人となりも暮らしぶりも存じ上げていたので、これっぽっちも嫌味に感じなかった。こういう方が持ってこそのブランド品なのだろうなと思った。
いただいたお財布は女性が持つには少々大きくてゴツい作りだった。ちょうど使い勝手のいい財布を探していた弟がそのお財布を使うことになった。弟は仕事などで世界中をそのお財布とともに旅をして、ボロボロになるまで愛用した。ボロボロになっても旅の香りがたっぷりと染み込んだそのお財布が名残惜しくて、銀座のPRADAで修理の見積もりをとった。それほど愛着を持っていた。
PRADAとトラベラーズノートのコラボレーションとほぼ時を同じくして、楽しみにしていた韓国のチョン・ウンスクさんの新著「美味しい韓国 ほろ酔い紀行」が書店に並んだ。チョンさんは自分の足で韓国中を歩いて、主に古き良き昔ながらの韓国の酒場を訪れて本にまとめている。女性だが私にはあの太田和彦さんに近いイメージがある。
楽しみに待っていた「美味しい韓国 ほろ酔い紀行」。現在書店に並んでいます。表紙を見ただけで旅好きの呑兵衛は手に取ってしまうと思います。
「美味しい韓国 ほろ酔い紀行」が出る前に読了していたチョンさんの著書。全てお薦めです。「釜山の人情食堂」を読んで釜山に行ってみたいと思いました。
ソウル在住のチョンさんは執筆だけではなく、ハングルの翻訳や著書に基づいた日本人対象のガイドもなさっている。日本の韓国通のあいだではかなりの人気の方のようで、都内でイベントがあると毎回チケットは早々に完売になる。
新著が書店に並んだ数日後に、瞬時に完売したその新著のイベントが都内で行われた。運よくチケットが入手できたので参加した。チョンさんにお目にかかるのは昨年のイベント以来二度目。著者が女性でテーマは酒場巡りなので参加者は男性がほとんどだろうと思った。蓋を開けてみると、満席の会場は圧倒的に女性が多かった。韓流ブームをきっかけに韓国好きになった方々のようだった。
イベントはスライドが豊富で興味深く面白かった。異国情緒に浸り、トラベラーズノートを片手にスライドの街中を歩いている自分を投影しているうちに過ぎ去った90分だった。こういうイベントこそトラベラーズノートに相応しく、トラベラーズファクトリーでやればいいのにと思わずにはいられなかった。
質疑応答などから参加者の多くはこちらが圧倒されるほどの渡韓歴を持っている様子だった。チョンさんの案内で酒場を巡ったことがある方も少なくなかったようだ。
イベント会場で自由に手にすることができた韓国のお菓子の一つ。他にスナック菓子などたくさんの種類がありました。パッケージのハングル文字だけで異国情緒が感じられます。
イベント終了後チョンさんにサインをいただきました。ハングル文字が新鮮でいいアクセントになっています。
参加者の中にトラベラーズノートを知っている・使っている方がどのくらいいらっしゃるか知りたくなった。スライドの内容に関する質問をしつつ問いかけてみようかと思ったが控えた・・・なぜか?
ロンドンの話を寄稿した「おとなの青春旅行」が昨年出たときに、西荻窪の「旅の本屋 のまど」で出版記念のイベントが行われた。自分が話すパートの初めに満席の場内にトラベラーズノートを知っているか、ウェブサイトを見たことがあるかと問いかけ挙手を願った。場内は静かなままだった。本の編者であり旅行作家であるあの下川裕治さんもいらしての、旅の本に特化した書店での旅の本のイベントだっただけに正直ショックだった。「トラベラーズ」なのに・・・。
あまりにショックだったのでトラベラーズノートのプロデューサーの飯島淳彦さんにそのことをメールした。私以上のショックの色が飯島さんからのお返事に見えた。そんな経験があったから問いかけるのを控えたのだ。
旅好きばかりがトラベラーズノートを手に取るわけではないことは承知している。トラベラーズノートのユーザーや限定品が出るたびに血眼になって入手する人たちの中に、チョン・ウンスクさんの旅の本のことを知っている方はどのくらいいるのだろうと思わずにはいられなかった。
イベントの余韻が残っているうちに「美味しい韓国 ほろ酔い紀行」を読了した。読み終えて本を閉じると結構なページ数に付箋が付いていた。貼ったのは旅好きの嗅覚が反応したところだ。
読み終わったらこの通り結構な数の付箋が付いていました。訪れたいと思ったところ、気になったところがそれだけあったということですね。
韓国には「○○食品」という名称の、日本でいう小規模のスーパーが各地にある。ここでマッコリやソジュを買うと店の奥にあるテーブルで飲める。願えばその場で簡単な酒の肴も作ってくれる。飲んでいて小腹が空けばインスタントラーメンも作ってくれるとのことだ。酒飲みにとってこんな素敵な場所があることをこの本とイベントで知った。最近リーさんにメールをした際に「○○食品」に触れてみたが、返事には触れられてなかった。きっといらっしゃらないタイプの場所なのだろう。
韓国はまだまだ私には「近くて遠い国」だ。でも、トラベラーズノートと「美味しい韓国 ほろ酔い紀行」を手にそのスーパーをいくつか巡ってみたいと思った。旅の供の13年愛用のレギュラーサイズは、たとえほろ酔いでマッコリをその上にこぼしてしまっても、しっかりと受け止めてくれるだろう。これが限定品のプレミアものだったら旅先の空気はおろか外気に触れることなど以ての外なのだろう。
次回のソウル再訪は「○○食品」巡りに決めた。マッコリやソジュとお店のオモニが作ってくれた肴が、「近くて遠い国」でしか感じない緊張で硬くなった心と体をほぐしてくれるだろうか。
その再訪ではリーさんにも再会するつもりだ。再会の際に、リーさんがきっといらっしゃることはない「○○食品」を巡ってきたと告げたときのリーさんの表情が楽しみでならない。
追記;
1. 弟がボロボロになるまで使い込んだそのお財布は、家中を探しに探し ましたが出てきませんでした。将来出てきたら公開したいと思います。
2. これまで以下のタイトルで韓国に関する話を書いてきました。 未読の方はどうぞご笑覧ください。
『お会計32万・・・』『空港にて』『AIR FORCE ONE』
『汗・・・』『Bell Deskにて・4』
「おとなの青春旅行」講談社現代新書 「パブをはしごして、青春のビールをーイギリス・ロンドン」を寄稿