見出し画像

『知らなかった・・・』

 この話は2018年7月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第129作目です。

 パブのバーカウンターに落ち着き、好きなウイスキーを頼んだ。ゆっくりと飲んで場に馴染んできた頃に、隣でウイスキーを一人で飲んでいた女性が肴にしていたものが目に留まった。それはポテトサラダだった。ウイスキーにポテトサラダか・・・合わなくもないだろうが、どちらかといえばビールではないだろうかと思いながら自分の肴であるミックスナッツの皿に視線を戻した。

 ちょうどそのときに読んでいたのは太田和彦さん編集の「今宵もウイスキー」(新潮文庫)という著名人のウイスキーに纏わるエッセイを集めた本だった。映画監督の黒澤明の長女の和子さんがクロサワの自宅での晩酌の様子を書いた「ウイスキー命 ―黒澤明の食卓」をパブに来る前に読んだばかりだった。記憶に新しい美味しそうだと思ったクロサワが生前自宅でウイスキー(ホワイトホースが主だったようだ)を飲む際の肴にしていたものが浮かんできた。手元にあるその本からいくつか列挙してみよう。

-お煎餅にありあわせのチーズ、バターをぬったもの(材料が何もないときに用意されたようです。)

-料理で残った鶏の皮をカリカリにして(焼いたと思われます。)塩をかけたもの

-お茶漬けの残りの鮭の皮をカリカリに焼いたもの

-ベーコンをカリカリに焼いたもの(ベーコンは常備していたとのことで何もないときはこれが登場したそうです。)

-コンビーフをほぐし、生玉葱のみじん切りを混ぜて胡椒で味付けしたもの(これはクロサワが大好きだったとのことです。)

-鱈子をほぐしてマヨネーズと合わせ、セロリにのせる

-おろした山芋を海苔に包んでさっと揚げて塩をひとふりする

・・・などなど、家でこれだけ用意できるのなら外へ飲みに出かける必要はないと思った。材料がないとあえて言っているときでさえウイスキーが進んでしまいそうなものがしっかりと用意されていたのは流石だ。それぞれ自分でも作ることができそうな気も少ししたし、これはやってみようと思ったものもあった。

 しばらくしてそのパブを母と訪れた。母はアルコールをほとんど受け付けないが、そのパブの料理と雰囲気が好きなので神楽坂の散歩の際に一緒に訪れることがある。母が食べもののメニューの中からコロネーションチキンというものを見つけて注文していた。運ばれてきたものは、過日バーカウンターの隣の席でウイスキーを一人で飲んでいた女性が肴にしていたものと同じものだった。ポテトサラダだと思っていたものはコロネーションチキンというものだったのだ。

 母に少し分けてもらって食べてみた。細く切られているチキンが、全体に薄っすらとカレーの風味が付いているクリーミーなソースと控えめにちょうど良い甘さを出している少しだけ入った干しぶどうとともに和えてあった。いままで味わったことがない味だったが美味しくてすぐに気に入った。ウイスキーの肴にならないこともないが、ビールのほうが合うのではと思った。これがサンドイッチの具だったらきっと美味しいだろうと母と話してメニューを改めて見ると、ちゃんとサンドイッチも用意されていて驚いた。後日サンドイッチも食べてみたがこれもまた美味しくて気に入った。以後サンドイッチはパイントグラスに入ったギネスを片手にこれまで数回食べている。

画像1

これがコロネーションチキンです。ご存知のトラベラーも多いのでは?

画像2

・・・で、サンドイッチになるとこんな感じです。ビールが欲しくなりますね(笑)

 酒の肴になるサンドイッチといえば、アフタヌーンティーで出てくるキュウリのフィンガーサンドイッチが一番合うと思っていて、自分でも週末に作っていた時期があった。いわゆるマヨラーでは決してないが、マヨネーズにも少し凝ってみたりした。しかし、このコロネーションチキンのサンドイッチも全く引けを取らない。

 コロネーションチキンとはどんなものなのか調べてみた。2012年にロンドンを訪れた際にパブでもらってきたフードメニューを先ずはチェックしてみたが、コロネーションチキンは載っていなかった。コロネーションチキンは、海外から350人ほどの高貴な方々を招いた1953年のエリザベス女王の戴冠の晩餐会のために考案されたメニューとのことだった。考案したのはフラワーデコレーターでもあるフードライター氏と料理学校の校長でもあったシェフの二人とされている。

 イギリスでは1953年当時はまだ第二次世界大戦後の食糧難をいくらか引きずっていた頃で、輸入の食材ですらほとんど入ってくることはなく、多種多様な食材を用意することは難しかったそうだ。現在では想像することは難しいが、食糧難が影響したせいか当時チキンは比較的贅沢品だったそうだ。しかし、その晩餐会でチキンを使ったことにより、海外からの招待客に対してイギリスの食糧事情が持ち直していることをアピールできたという。

 エリザベス女王はコロネーションチキンがかなりお気に召しているようで、バッキンガム宮殿でのアフタヌーンティーでは、コロネーションチキンのフィンガーサンドイッチが欠かせないとか。コロネーションチキンのフィンガーサンドイッチ・・・やはりあるのだ。

 ちなみに、1935年のジョージ五世の戴冠25周年式典の際に用意されたジュビリーチキンという一品がコロネーションチキンの参考になったとも言われている。そのジュビリーチキンはカレーとマヨネーズが使われているとのことだ。調べていくなかで2002年のエリザベス女王即位50周年式典の際には、そのジュビリーチキンをアレンジしたものが用意されたという記事にも出逢った。

 まだいくらか記憶に新しいロンドンオリンピックが開催された年でもあった2012年の戴冠60周年のときにはコロネーションチキンをアレンジしたダイアモンドジュビリーチキンが用意されたとのことだ。しかし、そのレシピは一般には未だに非公開だそうだ。尚、“ジュビリーチキン”と名付けられた出来合いの一品はスーパーマーケットで売っているらしい。

画像3

画像4

都内で何年も前に見つけた戴冠50周年の絵葉書です。ジョージ五世(女王陛下のお祖父様ですね)も載っていたので拡大してみました。

 では、現在のイギリスの一般家庭ではどのくらい普及しているのだろうと思い、ホームステイをさせてもらったお家の方にメールで尋ねてみた。メールの返事によると、コロネーションチキンは出来合いのものをスーパーマーケットで手に入れることができるので、家庭では作ったり作らなかったりのようだ。日本のポテトサラダと同じような扱いに映る。スーパーマーケットで出来合いのものが手に入るのなら、次回ロンドン再訪の際はジュビリーチキンとともにチェックしてみようと思った。メールにはさらに、サンドイッチのフィリングの他にベイクドポテトのフィリングにも用いられるとあった。それを読んだ途端にコールドミールであるコロネーションチキンが熱々のベイクドポテトにかかった美味しそうな様子が思い浮かび、どこからかカレー風味が漂ってきた気がした。これもロンドン再訪時にチェック必須だ。

 クロサワは夜食でサンドイッチに凝った時期があったそうだ。どんなサンドイッチだったか興味のある方は「ウイスキー命 ―黒澤明の食卓― 」を是非一読いただきたい。片手にはもちろんウイスキーグラスがあったとも書いてあった。

 この話を書き上げる直前の週末に散歩がてら神楽坂に行きパブに寄った。クロサワはコロネーションチキンとそのサンドイッチを知っていたのだろうかと思いながら、カウンターでコロネーションチキンを肴にウイスキーを飲んでみた。なかなかどうしてウイスキーにも合うじゃないかと思った。カウンターでコロネーションチキンを肴にウイスキー・・・週末の夕方のパブでの私の定番になりそうだ。

画像5

コロネーションチキンを肴にウイスキーを・・・。

 学生の頃から現在でもまわりも認めるほどかなりのイギリス好きでいるがコロネーションチキンは本当につい最近まで知らなかった。知らなかったことを悔しいと感じるよりも、イギリスにはまだまだ自分が知らない面白いものがあることを知って嬉しかった。これからも未知の面白いものとの出逢うことを想像するとワクワクする。

 コロネーションチキン(ジュビリーチキンも含む)をチェックすることは次回イギリス再訪時にすべきことのリストに既に加えた。再訪が実現するまでにあといくつ未知のものに出逢ってチェックリストに加わるのだろうか。楽しみが尽きないと同時にウイスキーも止まらなくなりそうだ。

追記:

1. エリザベス女王の戴冠50周年の絵葉書は手元にありましたが、60周年のものは何かなかったかなとあたりを見回すと、自宅の階段の踊り場にこのフィギュアがありました。バッグのところにセンサーが付いていて、日光が当たると手を振る仕掛けになっています。好天のときは日が暮れるまで公務(手を振ること)を続けていらっしゃいます(笑)。

画像6

2. パブでメニューをもらったことや、短い間に様々なことを経験した   2012年のロンドン再訪の旅は、以下のタイトルでこれまで書いてきました。どうぞご笑覧ください。

「再会・4」「3,000円のベーグル」

「レコードジャケットに想いを馳せて」「右肘、左肘・・・?」

「Chinatown(旅先で食べたもの・5)」「旅先で食べたもの・8」

3. トラベラー各位もよくご存知の下川裕治さんからお話しをいただき、これを書いている時点では7月19日に講談社現代新書から出る予定の「おとなの青春旅行」(下川裕治・室橋裕和 編著)にロンドンの話を二話本名の津久井英明で寄稿させていただきました。書店で是非手に取っていただきたいと思います。下川さんとの出会いは「パブでちょっと・・・」というタイトルで以前書いています。

画像7


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?