『週末ちょっと早起きしてイギリス』
この話は2021年9月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第167作目です。
前作『旅先で子供の頃にかえる』はイギリスの二階建てバスの話だった。イギリスの話のせいか書いている最中に何度もイングリッシュ・フル・ブレックファスト(以下フルブレックファスト)が食べたくなった。
神楽坂の行きつけのパブに行って久々にフルブレックファストを肴にゆっくりギネスを飲もうと思った。しかし、東京都は「禁酒令」のほうがずっと通りがよい緊急事態宣言下なので叶わない。
僕にとってフルブレックファストは朝ごはんのメニューというより、パブでの酒肴の一つだ。ビールを飲みながら・・・が叶わないなら、「朝ごはんとしてフルブレックファストが食べられるところはないだろうか・・・。」と思いを巡らせた。
少々変な言い方だが、フルブレックファストを朝ごはんとして朝から食べられるお店が都内にあることをSNSで知った。週末に行ってみることにした。
お店の最寄り駅は地下鉄銀座線の外苑前。地下鉄に乗ってイギリスの朝ごはんを食べに行く。休暇でロンドンに居て、気になっていた朝ごはんのお店にガイドブックを片手に地下鉄に乗って食べに行く・・・そんな気分になった。
土曜の朝なので銀座線は乗客がまばらだった。ガラガラの車内でも銀座線に乗る度に感じる香港の地下鉄と同じ匂いがする。そんなことをしばらくぼんやり考えていた。
外苑前に着いて地上に出ると目の前は246(青山通り)。お店の住所を予め入力しておいたスマートフォンの地図アプリを起動させた。旅先だったらかつてはここで分厚いガイドブックの行きたい場所のページを開いて方向を確かめるところだろう。
人通りが多い246も土曜の朝は閑散としている。地図アプリに従って歩くとキラー通り(外苑西通り)に出た。
この二つの通りが交差するところにあったあの青山ベルコモンズは青山グランドホテルになっていた。ベルコモンズと聞くと、秘書をしていた従姉が仕事のお使いで外出した際にベルコモンズで油を売っていると、歌手の松田聖子を見かけたという話をいつも思い出す。
ベルコモンズの斜向かいにあったハーゲンダッツはFrancfrancになっていた。再訪した旅先で見慣れた景色がガラリと変わっているのに出くわした気分だった。
地図アプリがキラー通りを右折せよと指示した。その途端「ああ、やっぱり」となった。キラー通りを右に進むとかつて毎週末通っていた10数年前に閉店してしまったバーがあった。目指すお店はかつて通ったそのバーのあたりではと住所から見当をつけていたからだ。
そろそろ左側にお店が見えてくる頃だと思ったところで並んでいる人たちが見えた。全10席のお店とは聞いていたが間口がかなり狭い。並んでいる人たちがいなければ間違いなく通り過ぎていた。
目線を上げてキラー通りの左側を千駄ヶ谷方面に向かって歩くとこのイングリッシュ・フル・ブレックファストのオブジェが見えてきます。これを小さくしたものをマグネットにしてグッズにすればいいのに。そうなれば多分買います。
入口の横に立てかけてあります。売り切れたら裏返すのかどうかはわかりませんが、「本日もご用意しております」というお店からのメッセージと取りました。
土曜の朝の8時半という時間帯にもかかわらず、既に3組(6人)並んでいた。7時半開店の店内では既に10人が食事中ということになる。列に加わってすぐにさらに3組(6人)が後ろに並んだ。東京の週末の朝も随分早くなったと思った。
列にいたのは、服装から判断して、近所に住んでいる常連と僕のように徒歩だけでは来られない人たちが半々くらいだった。注文しておいたテイクアウトを取りにくる人もいた。
並んでいる横を何人ものジョガーと、青山という土地柄なのか、品川ナンバーの高級車が何台もキラー通りを走り去って行った。
「お待たせしました」という声がした。暑い中滴る汗を拭いながら30分は待っただろう。手の消毒と検温を経て店に入ると、これも青山という土地柄と「世界の朝ごはん」というメニューのせいなのか、先客に外国人たちの姿が見えた。
席に着いてメニューがテーブルに置かれると同時に、イングリッシュ・ブレックファスト(「フル」の記載はメニューの説明文にあった)とアイスティーを注文した。
先に来たアイスティーを飲みながら店内をぐるりと見渡した。10人で満席が精一杯という作りだった。グループなら1組4人まで、1人もしくは2人で来て、長っ尻にならない時間で席を立つべきお店なのかもしれない。
コロナ対策のパーティションで仕切られている一人分のスペースは少々窮屈に感じる。しかし、過度な装飾が一切ない店内は外国の旅先での食事処の雰囲気がしっかり出ていた。これで料理が美味しければ再訪しようと思った。
メニューは終日世界数カ国の朝ごはんのみ。週末と祝日の朝ごはんの時間帯のテーブル予約は不可。休みでも早起きしてやって来た人が順番にテーブルへ案内される。
テーブルに置かれたままのメニューに目を落とすと、イギリス、アメリカ、ノルウェー、台湾の朝ごはんがレギュラーメニューとして載っていた。そうだ、台湾の朝ごはんもあったのだとSNSで見たのを思い出して膝を打った。次は台湾だな。何だか訪れている旅先で次の休暇と旅先のことを考えてしまうのに似ていた。
ようやく待望のフルブレックファストが運ばれてきた。料理が冷める心配がいらないほど簡潔にイングリッシュ・フル・ブレックファストの歴史からお皿の上のものをひとつひとつ説明してくれた。
久しぶりのフルブレックファストは食べ慣れた神楽坂のパブのものに比べて見た目がこじんまりしていた。きっと炭水化物、野菜、肉、卵がひと皿の中に揃っていれば量や大きさに関係なく「フル」なのだろう。
卵は何も言わなければスクランブルエッグで出てくるようだ。目玉焼きでもポーチドエッグでも対応してくれる。朝ごはんを食べるところで海外と同じように卵の調理の好みが叶うのは嬉しい。日本で和朝食を頼んだら好みを聞かれることもなく出てきた生卵に面食らった外国人は少なくはないだろうと思った。
久しぶりのイングリッシュ・フル・ブレックファスト。卵はスクランブルエッグです。フライドトマトがひと味違う「朝はパン」を演出していると思います。
再訪して卵を目玉焼きにして再度堪能しました。
ポーチドエッグ。かつて勤めていた航空会社のシンガポール便とバンコク便のファーストクラスの朝食メニューにあった。調理するには限界がある機内のギャレーでポーチドエッグを準備するのは困難。当時のアメリカ人の上司はアジアの機内サービスの責任者でもあった。ファーストクラスで主に働くシニアの乗務員たちが彼女のところに来て厳しいことを言っていた様子をポーチドエッグで思い出した。
・・・で、ポーチドエッグでもフルブレックファストを食べてみたくて再訪。3度目。お店からはもう常連と思われているかも。この話は結構「製作費」がかかっています(苦笑)。
さあ、食べようとカトラリーを取ろうとした際に、自分の左右前方と両隣の人たちの様子が目に入った。みなさんが食べていたのはその月限定のスイスの朝ごはんだった。スイスに想いを馳せながら召し上がっていたのだろう。
スイスに行ったのは一度だけ。学生の頃だった。朝ごはんに何を食べたかは覚えていない。初めての就職先がスイスの航空会社だった弟にこのお店のことを知らせなくてはと思った。
ああ、これだよなと夢中でフルブレックファストを食べた。美味しかった。食べ終わるとお腹も「フル」になっていた。朝ごはんとしては適量だったのだ。
これは神楽坂のパブのフルブレックファスト。酒場だとお皿の上はビールが進むものばかりに見えます。トーストに目玉焼きを挟んでサンドイッチにして締めの炭水化物にするのもありですね。さらにビールが進んで締まらないかもしれませんが・・・。
アイスティーを空にしてごちそうさまと勘定の合図を送った。マスクをしてソーシャルディスタンスに留意しながらお店の方と少々話をした。客あしらいも申し分ない。再訪決定。
フルブレックファストには欠かせないベイクドビーンズ。 僕の親の年代では欧米らしい食べものというとこのベイクドビーンズも入るようです。お店でこの缶詰を売っているのに気付いたので勘定の際に一つ買って母へのお土産にしました。
お店の詳細は記さないでおく。行ってみようと思った方はここまで読んでいただいたことをヒントにして是非。トラベラーの嗅覚が必ずお店へ導いてくれる。
旅先のような雰囲気の中での美味しい朝ごはんで休日が始まった。休暇の旅先でなら食事の後は買いものとなりそうだが。表参道の青山ブックセンターまで腹ごなしを兼ねて歩こう。辿り着く頃には開店だ。この「休暇でイギリス」の気分が続くような本に出逢えるだろうか。早起きしたおかげいい休日になりそうだ。
追記:
1. 前作『旅先で子供の頃にかえる』で旅行作家の蔵前仁一さんの著書「旅がくれたもの」について触れました。大変不躾ながらその旨を蔵前さんご本人にお伝えしました。蔵前さんからはご笑覧いただいた後で大変丁寧で温かく嬉しいメッセージをいただきました。感謝です。前作を未読の方は是非ご笑覧ください。
2. 神楽坂のパブのイングリッシュ・フル・ブレックファストに関しては『朝ごはん』というタイトルで書いています。未読の方は是非ご笑覧ください。東京の「禁酒令」が解けましたら是非実物をご堪能ください。パブは「神楽坂」をヒントに探し当ててください。きっと辿り着けます。
3. これまで書いてきた以下「週末シリーズ」も是非合わせてご笑覧ください。
『週末ちょっと早起きして台湾』
『週末ちょっと早起きしてシンガポール』
『週末ちょっと早起きしてアメリカ』
「おとなの青春旅行」講談社現代新書 「パブをはしごして、青春のビールをーイギリス・ロンドン」を寄稿
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