『いつかそこへ・2』
この話は2010年7月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第33作目です。
これを書き始めたのはサッカーのワールドカップで日本がデンマークに勝ちベスト16入りを決めた数日後である。
日本時間の午前3時半試合開始にも関らず多くの人達がテレビで観戦し、日本列島が寝不足になった。
目を瞑れば日本が挙げた全得点が鮮明に浮かぶほど勝利の報道が何度も何度も繰り返し放送されていた。テレビを点ければ日本代表の勝利シーンばかりという日が続いていた。これ以上このような報道が続くとサムライブルーにブルーにさせられそうだと思いつつ本作が完成した。
投稿前の見直しを行っている時に日本はパラグアイとのベスト8入りを賭けた決勝トーナメントが始まり、そして敗れた。今日からしばらくはあの勝敗を分けたPKのシーンを何度もテレビで見せられることになるのだろう。
現在南アフリカで行われているワールドカップは、僕自身が関わった2002年のワールドカップから数えて早くも2度目のワールドカップだ。
毎度のことだが、今回も日本代表の試合の前後のテレビ報道はくどくて食傷気味になった。
こんなにサッカーファンが日本にいたのかと毎回思う。特に芸能人の方々。
普段Jリーグは結果をチェックするくらいでほとんどサッカーは観ないが(今でも親しくさせていただいている関係者の方々ごめんなさい)、夜中に放送されているヨーロッパのサッカーやワールドカップのような国際試合は結構観るほうだ。
応援しているチームも注目している選手も特にないが、ヨーロッパのサッカーは行きつけのパブの大画面で流れていると、つい見入ってしまう。本場の試合が何もわからなくても楽しめるのは、やはりプレイヤーのレベルが高いからだろう。
何かに関わるまで、未経験の事を体験するまで、知らなかったことというのはたくさんある。2002年のワールドカップで働かなければ、セネガルという国、というか国名すら知らないでここまで生きて来てしまっていたはずだ。
当時会場の一つである大分のメディアセンターで働いていた時に、メディアセンターのカウンターから見えるセキュリティー・チェックのところで一人の男性が警備員に捕まっていた。
肌が黒く、Tシャツにジーンズ姿のその男性はセネガルのメディアの人だった。FIFAから発行されたIDが無ければメディアセンターの入り口にさえ辿り着けないのに、その男性は警備員に捕らえられていたとはいえ、メディアセンターの中にいた。身分を証明するものはパスポートしか持っていなかったはずだ。
その頃丁度セネガルがフランスを破って次の試合地である大分にやって来る頃だったので、「セネガル」という国名がとても強く印象付けられ始めていた。
当時どのチームも試合前日の練習の公開は冒頭の15分のみで練習後の会見は行わないというのがほとんどであった。そのためメディアセンターにいても問い合わせに関する答えは対象チームが変わっても同じであった。
ところがセネガルは違った。練習は全公開、大分では監督と主力選手も出席して記者会見までもやることになった。メディアセンターにいた我々は結構慌てた。
大分に関しては、スタジアムこそ開閉式の屋根が付いた立派なものだったが、メディアセンターはスタジアムの外に急誂えで作った感じが否めないプレハブ小屋のようなところだった。
長髪でロックスターのような風貌だったブルーノ・メツ監督を見て、「練習全公開・記者会見開催」が何となく納得できた。メディアセンター内を歩く軽やかな足取りから、この場に及んで何も隠すものはないよという姿勢が感じられたからだ。
ある国が勝ち進むと、その国のメディアも日本滞在が(当時は韓国も)延び、顔見知りの記者等も出来るようになった。顔見知りになったセネガル記者は、日本が宮城でトルコに負けた後で大阪のメディアセンターで会ったときに残念だったねと声をかけてきた。
大分でセキュリティーに捕えられたあの記者もその後はIDをしっかりと身に付け各地で擦れ違った。
最終的にセネガルはベスト8で2002年のワールドカップを終えた。僕にとっては名前さえ知らなかった国がここまで勝ち残ったというのが驚きであったと同時に「セネガル」という国に興味を持った。
ワールドカップが終わり一月振りに帰京した数日後、開催中は記念になるものが何ひとつ買えなかったのでサッカーショップを回ってみた。
セネガルのTシャツを見つけたときは迷わず買った。そのTシャツにはセネガルの国旗と英語で彼らのニックネームである “Lions Of The Teranga” がプリントされていた。
“Teranga”とは人を親切にもてなすとか温かく歓迎するという精神のことだそうだ。長い間フランス領だった歴史があるが、それがどれほどのものだったのかは計り知れない。
人を親切にもてなし、温かく歓迎する精神を大事にしているということは、きっと同民族間で助け合っていかないと大変だったのだろう。フランスに勝った5月31日は現在祝日になっているそうだ。
サッカーは戦争だ(国際大会はという意味だと思うが)とよく言われるが、勝敗がもたらしたものを目の当たりにすると頷ける。
今大会の行われている南アフリカでも、会場は南アフリカ内で5, 6会場に渡っているはずだ。
日本から行っているメディアの方々も南アフリカ内での移動が大変だろう。発展途上中の国に長く滞在してその中で移動を繰り返す過酷さは想像に難くない。
治安の悪さから海外のメディアやサポーター達が盗難などの被害に遭ったニュースの頻度も過去の大会に比べて多い。しかし、過酷な毎日でも、サッカーに関わっていなかったら南アフリカなんて来なかっただろうなと思って「旅先での旅」を楽しんでいるメディアの方々もいるのではないだろうか。
僕が2002年に出会ったセネガルの記者達も、きっとサッカーに関わっていなければ日本と韓国へ行くチャンスは無かったのではないかと思う。
札幌・大分・宮城・大阪・埼玉・横浜と旅をして各地のメディアセンターで働いた2002年のワールドカップに関わらなければその名前さえ知らないままだったであろうセネガル。そこへ訪れる日は来るのだろうか?
ワールドカップと聞くと必ずその国名を思い出すセネガル。サッカーの世界大会をテレビで観ながら行ったことのない国に思いを馳せてしまうのは、僕が根っからのトラベラーだからだろうか。
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