見出し画像

『旅先のホテル・1』

 1990年に大学を卒業してアメリカの航空会社に入社した。最初の配属先は成田にある機内食課でシフト勤務となった。時間によっては都内の自宅からは通えなかった。
通勤のために職場の近くに一部屋借りた。最初は富里町(現富里市)の新築のアパート。完成してすぐに入居した。2年後には成田市内の団地に引っ越した。
 さすが公団。当時で築約20年だったが、民間の1Kとあまり変わらない家賃で広さは3K。駐車場も付いていた。

住まいが広くなったせいではないが、しばらくして電話をFAX付きのものに変えた。NTTで買って電話料金に上乗せして毎月払った。本体は両手でしっかり持たなければならないくらいの重量だった。携帯電話もスマートフォンもなかった1993年の話。
 インターネットもない時代だった。海外の宿泊先を個人で手配する方法は国際電話かFAXだった。番号はガイドブックから拾っていたのだと思う。
 1994年に休暇を取ってシンガポールへ会社の後輩と行った。初めてのシンガポールだった。フライトは自社便。ホテルは当時のロイヤル ホリデイ・イン・クラウンブラザだった。
 ロケーションは申し分なし。あの有名なオーチャード通りを横に一本入ったスコッツ通りにあった。ホリデイ・インにしたのは航空会社勤務者用の割引、所謂「エアライン・ディスカウント」があると睨んだからだった。
 予定している滞在日数、部屋数、「エアライン・ディスカウント」の有無などを英語で書いてシンガポールへFAXで問い合わせた。
 数日後帰宅すると、ロールの感熱紙に印刷された返信がFAXの受信トレイからだらりと垂れ下がっていた。築20年の団地の部屋に吹き込む隙間風にヒラヒラと揺れていた。
 詳細を見ると、確約は出来ないがエアライン・ディスカウントで対応してくれることになった。最終的に一部屋・一泊140シンガポールドルだった。調べたところ1994年当時1シンガポールドルは約70円。一泊約9,800円だったことになる。3泊したが後輩と折半したので破格中の破格だった。

先方がこちらのFAXを受けて作成したもの。チェックインのときにこちらのクレジットカード番号と照合の後にくれました。きっとこれと同じ内容がFAXで返信されてきたと思います。そして最終的なルームチャージの提示があったのだと思います。


チェックアウトの際の明細。本文の通りの金額でした。
ミニバーも「映画」もなし・・・。


明細を入れて渡してくれた封筒と部屋のカードキーのホルダー。806号室。自分のもの持ちの良さに感心(苦笑)。


 これを書いている2023年の6月下旬時点の1シンガポールドルのレートは105円前後。ざっくりと計算しただけでも現在の円安の酷さを改めて思い知らされた。

 その2年後の1996年に休暇で再訪した。大叔母親子(大叔母と母の従弟)、僕の従姉、母と僕の5人での旅行だった。ホテルの手配は自然と僕に「お任せ」となった。
 ホテルはメインストリートから近くて便の良いところと思った。迷わずロイヤル ホリデイ・イン・クラウンブラザにした。
 こちらのメンバー構成、必要な部屋の数、エアライン・ディスカウントが利くか否かを英語で書いてFAXで問い合わせた。
 仕事から帰えると、またまたシンガポールからの返信がFAXの受信トレイからだらりと垂れ下がっていて、隙間風にヒラヒラと揺れていた。
 返信の文面が日本語だったので驚いた。マネージャークラスの方の中にいらっしゃった日本の方が対応してくださったのだった。再訪であることと、こちらの職業を見たのだろう。何と必要な3部屋全てにエアライン・ディスカウントを利かせてくださった。訪れたのは6月のオフシーズンだったからかもしれない。
 大叔母の息子であり母の従弟は音楽のプロデューサー。レコーディングなどで世界中を飛び回っていた。現地集合となったシンガポールへは大叔母とともにユナイテッド航空のファーストクラスでやってきた。往復分全て手持ちのマイレージで賄えたそうだ。
 その母の従弟はレコーディングのスケジュールの都合でパリーニューヨーク間をコンコルドで移動したこともあったと以前話してくれた。
一時期頻繁にシンガポールに来ていたが、ロイヤル ホリデイ・イン・クラウンブラザは初めてだったとか。世界中の大都市のホテル代の相場を知っているので、破格のホテル代に驚愕していた。
 旅慣れた人を満足させた上に驚かせた。「ホテルはお任せ」の大任を果たせた気がした。
 ちなみに僕と母は当時の自社便の社員の家族特典で、僕の従姉はその会社の手持ちのマイレージを使用。3人一緒に同じフライトでシンガポールへやってきた。
 「ロイヤル ホリデイ・イン・クラウンブラザ」と聞いてピンと来たシンガポール好き・シンガポールマニアはどのくらいいらっしゃるだろうか。
 そう、グッドウッドパーク・ホテルを売ってもらえなかったといわれているブルネイの王様が対面のホテルを買って、グッドウッドパークより高い建物にして、滞在の度にグッドウッドパークを見下ろしたホテル。その逸話のホテルがロイヤル ホリデイ・イン・クラウンブラザだったそうだ。
 オーナーが国王であるがゆえ、ホリデイ・インに「ロイヤル」も「クラウン」も付いているのかと当時合点がいった。
 しかし、こういう逸話は、真偽の程は別にしても、ホテル好きにはたまらない。
 1993年に初めて買ったRIMOWAのボードケース(スーツケースの二まわりくらい小さいもの。機内持ち込み可能なサイズ)はいまでも愛用している。  
当時の旅行雑誌「Gulliver」で見て欲しくなったのだった。そのRIMOWAにはステッカーがたくさん貼られていた。やってみたいと思った。
 RIMOWAのボードケースでの初めての海外は確かハワイだった。初めてホテルのベルデスクでそのホテルの名前の入ったステッカーを手に入れたのはロイヤル ホリデイ・イン・クラウンブラザだった。帰国の際にはステッカーが貼られてシンガポール帰りのボードケースになっていた。


初代ボードケース。ハワイとシンガポールの他はこれで香港にも行った様子。日本シリーズは名古屋。サッカーのものは2002年のW杯の仕事のとき。天文館は鹿児島。友人のレスラーのス テッカーも。すっかり国内用になってしまいました・
機内持ち込み可でもステッカーのエイジングのためにあえてチェックインを重ねた結果このように。
二代目のボードケース。スーツケースと呼んでしまっていますが・・・。   2度目のシンガポールはこちらで。
2度目のときは白バージョンもいただきました。    
初代と二代目の大きさの違いが伝わるでしょうか。
凹みやキズに年月が感じられます。


  その後ホリデイ・インは撤退したようで名前も「ロイヤル・クラウンブラザ」となった。思い出のホテルなのでそこまでは追いかけていた。

 この話を書くに当たって、シンガポールの友人の助けを借りながらホテルの現状を調べてみた。リノベーションを繰り返しながら、ホテルはロイヤル・クラウンブラザとして営業を続けていた。
 ホテルからデューティーフリーやショッピングモールに変わってしまったとずっと思い込んでいた。建物がリノベーション中にカバーで覆われていて、そのカバーに付いていた広告を目にしたためにそう思い込んでいた。
 FAXが主流だった時代にFAXで手配した海外のホテル。いまとなっては実現が難しい親戚のひとたちとの旅行の際に滞在したホテル。初めてホテルステッカーを手に入れたホテル。名前も数度変わり、幾多のリノベーションを経て、コロナ禍も乗り越えて、営業を続けてきたこのホテルを再訪してみたくなった。
 ここ何回かのシンガポール再訪では、あのグッドウッドパークの奥にあるヨークに宿泊が続いている。ホテルを背にスコッツ通りに出た際にチラリと横目で見るだけだったロイヤル・クラウンブラザ。次回のシンガポール再訪の際には、時間を作って訪れて見ようと思っている。
 未使用で手元に残っているホリデイ・イン時代のものと、改名してから立ち寄って手に入れたロイヤル・クラウンブラザのステッカーを持っていってみよう。

未使用で手元に残っていました。          
ホリデイ・インの白バージョンの未使用は手元になし。


 現在もステッカーがあるならば、見せたときに最新のものを出してくれるかもしれない。フンと素っ気なくされるかもしれない。どちらでも旅の思い出となるだろう。

 それよりも、シンガポールといえば必ず思い出として甦ってくるこのホテルの前に立ったとき、中に入ったときに、長いこと忘れていた思い出が何かもうひとつ甦ってくるかもしれない。ホテルにはそういう力がありそうだ。
 シンガポール再訪はいつになるかわからない。でも、何だか楽しみになってきたな。


いいなと思ったら応援しよう!