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『一度だけ』
ある朝の通勤時の偶然。乗り換えの駅で電車を降りると、その電車に乗ってくる人たちの列に見覚えのある顔が。航空会社時代の先輩のような気がした。
翌朝また同じ状況になった。思い切って「○○さん!」と声をかけてみると、「おーっ!津久井!」となった。やはり先輩のOさんだった。
お目にかかるのは僕が2001年のあの9.11のテロの後で勤めていた航空会社をリストラされて以来。約23年ぶりの再会となった。
約23年の空白をすれ違うだけの短時間で埋めるのは無理。また同じ時間にお会いするだろうと思い、ロンドンの話を2話寄稿した「おとなの青春旅行」を一冊通勤カバンに忍ばせた。
本をカバンに忍ばせた翌朝、再び先輩にお目にかかれた。こちらは降車、先輩は乗車の短時間で本をお渡しした。「詳しくは後ほどDMします。」と告げるのが精一杯だった。早速ご笑覧いただけたようで、その日のうちにこちらが嬉しくなったコメントが届いた。
旅のストーリーの作品数が200作を超えた。先輩に本を差し上げたことをきっかけに「何故旅の話を書くのか?」ということに立ち返ってみた。
2006年に出逢い、2007年から旅の記録のために使い始めた革カバーのノート。航空会社にいた頃に比べて、仕事でも休暇でも、旅から旅の間が随分と開くようになった。革のノートの休眠時間が長くなり、せっかくのノートが下手をすると埃を被ってしまいそうになった。
それなら以前から考えていたこれまでの旅の記憶を記録しようと思った。タイミングよくそのノートのメーカーが公式サイト内にユーザーからの投稿(旅先などでのノートの写真、ノートの使い方、旅のストーリー)のコーナーを2007年に立ち上げたので、「旅の記憶を記録する」を旅のストーリーにして投稿し始めた。
「旅の記憶を記録する」が旅のストーリーを書き始めたきっかけであり原点だった・・・ということを再認識した。
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『旅の記憶を記録する」のなら、記録しなければならない旅の記憶がまだまだあった。インドネシアのジャカルタにこれまで一度だけ訪れたことがある。入社7年目。29歳。1996年のことだった。仕事でのインドネシア初上陸だったが。
大阪からジャカルタへDC-10で週に3便出すことになり、その準備のためのジャカルタ行きだった。責任の範囲は機内食の準備。僕のストーリーで仕事の話になるとよく出てくるあのJerryが一緒だった。
この新路線就航には但し書きが付いた。「日米航空交渉がまとまれば」という但し書きだった。我々はアメリカの航空会社なので、これまでの経緯から「まとまるもの」と高を括って準備を進めていた。
ジャカルタ側の機内食会社には必要な機材は全部送っていた。整備や運行管理などもそれぞれ準備を進めていたはずだ。
アメリカの航空会社がDC-10でアメリカ(シアトル)から日本(大阪)を経由してインドネシア(ジャカルタ)に飛ぶ。需要があるのだろうかとそのときは思った。口には出さなかったが。
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当時使っていたパスポートのスタンプを見ると、わずか四日の慌ただしい出張だった。日米航空交渉がまとまらなければに何も準備ができない四日間を過ごした。
その四日間の滞在中ジャカルタの機内食会社と「まとまれば」という前提での打ち合わせを一回、整備を初め、運行管理や旅客などと全体の打ち合わせが一回あった気がする。
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インターネットもノートPCもまだまだ個人には普及していない時代。日本に残してきた仕事を莫大な待ち時間に片付けるわけにはいかなかった。機内食に関してアメリカとヨーロッパの一部を管轄していたJerryは時差を睨みながら国際電話をかけていたようだったが。
とにかく「待つ」のが仕事だった。待ち時間の息抜きはJerryと食事に出るくらいだった。後はホテルの部屋で映画を観みたり、持参した本を読んだりして過ごした。絵葉書も書いただろうか?郵便局やフロントで切手を調達した記憶はない。映画といえば、トム・クルーズの「ア・フュー・グッドメン」を観ていたらミーティングの集合時間となり、最後まで観られなかった。帰国してレンタルビデオで続きを観た。
日米航空交渉は結局まとまらず、交渉は中断となり、我々は一旦帰国となった。現地の機内食の会社に預けた機材は、交渉再開と締結に備えてしばらく置いておくことになった。最終的には全てキャンセルになったが・・・。
約12年航空会社に在籍した。様々な局面で「航空会社で働いている」と実感したことがあった。このジャカルタでの四日間もそうであった。国際政治に自分の業務がここまで翻弄されるとは思わなかった。
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ジャカルタで機内食の業務を請け負う予定でいたのは、ガルーダ・インドネシア航空のグループ会社だった。ガルーダ・インドネシア航空はインドネシアの所謂フラッグキャリアだ。
JerryとJALで成田からジャカルタに到着して機外に一歩出ると、キチンとした身なりの機内食会社のスタッフが待っていた。「ようこそジャカルタへ。パスポートをお預かりします。」と綺麗な英語で話しかけられた。
そのスタッフは我々のパスポートを手にどんどん歩いて行った。セキュリティー、入国審査、税関・・・いつの間にか全部パス。
迎えの車に乗り込んだところでパスポートが手元に返ってきた。すぐに中を改めると入国印がしっかり捺されていた。
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フラッグキャリアのとんでもない融通だった。素晴らしいホスピタリティー、勘違いしてしまいそうなVIP待遇・・・と言いたいところだったが、現地通貨に両替する暇を与えられないまま空港を後にする羽目になってしまった。しかし、これはいまでも忘れることのない貴重な経験だった。
Jerryはミネアポリスの本社の人間。別の部署の担当で成田から派遣されてきたアメリカ人のマネージャーは本社での採用ではなかった。
お互いに「面白くない」のか二人は少々ギスギスした。この「ギスギス」が後々問題となった。Jerryは全く悪くなかったのをいまでも忘れない。
何が言いたいのかというと、外資系でしかもアメリカの会社でもアメリカ人同士でこういうこと、所謂日本的なことがあるのだということだ。
その後の転職先の外資系の会社でも同じようなことを目の当たりにしたが、驚かなかった。ジャカルタでもっと凄いものを目の当たりにしていたので。
フライト自体は就航せずインドネシアの人たちと仕事をすることはなかった。しかし、振り返ってみると、国際政治に翻弄されたり、入国の際の信じられない便宜を受けたり、アメリカ人同士の確執を目の当たりにした。自分にとっては「インドネシアでごはんを食べて帰ってきた。」だけの旅にはならなかった。
オーストラリアとオーストリアの区別はついていたが、インドネシアとインドの違いがよく分からないうちに行って帰ってきた旅だった気がしないでもなかったが。
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自分がマリンスポーツと縁があればバリ島がきっかけとなりインドネシアを身近に感じられたと思う。しかし、マリンスポーツとは無縁。
都内の行きつけのカフェの上階に完全予約制で予約困難なインドネシア料理のお店がある。旅に関する書物を出していらっしゃる方のご贔屓も少なくないお店のようだ。食べものをきっかけとしてインドネシアに注目してみようかと思う。
そのレストランへ行くための日程調整をする前に、約23年振りに再会した先輩と一献傾けるスケジュールの調整をしなくては。まだまだインドネシアとの関わりは深まりそうにない。