『100』
この話は2014年11月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第85作目です。
前作「1999」は私が書いた旅の話の84作目であった。毎月1作・年に12作が積み重なり、ここの掲載していただいて丸7年経っていた。トラベラー各位に毎月お付き合いいただくのも、この話が掲載されれば8年目ということになる。本当に感謝である。今回もベースボールの話にお付き合いを。
前作に登場しなかったが、私が観戦した1999年の日本シリーズ第三戦でライトを守っていた現ホークス監督(もう “元“ というべきか)の秋山幸二さんが今シーズンを最後に退任することになった。その試合の守備での秋山さんのファインプレーは、今でも日本シリーズの好プレーとして語り種である。あの時・あの場所にいた方がまた一人この2014年に節目を迎えて、最後は優勝で花道を飾った。きっと忘れられない年になっただろう。
今年2014年4月のある一日、「On The Road・1」、「On The Road・2」での旅の切っ掛けを与えて下さったK社長より、その翌日からお仕事でシカゴへいらっしゃるご連絡をいただいた。シカゴにはもう何度もいらっしゃっていて、隅々までご存知なところかと思ったが、私のお気に入りのリブのお店(「久々」ご参照下さい)を取り急ぎお知らせした。
ゴールデンウィークも終わりに近づいてきた頃、午前中K社長から宅配便が届いた。メモも何も同封されていない袋の中から、凄いものが出てきた。私が世界で一番好きなボールパークであるシカゴのリグレー・フィールド開場100周年記念のTシャツである。袋から取り出して目にした途端、「オーッ!!!!!」と思わず大きな声が出てしまった。
Tシャツを包んでいたビニールごとから取り出した瞬間、何となくアメリカの匂いがした。そしてビニールの封を切った途端にシカゴの空気が部屋の中にふわっと広がった気がした。
これがそのTシャツです。グリーンは外野のフェンスに絡まっている蔦の色を表していると思います。100周年の日付も入っていますね。全てにおいてハイセンスです。Tシャツが入っていた袋も偶然取ってありました(笑)。袋にもリグレー・フィールドの絵がありますね。感謝です。
K社長は、私が18歳から19歳にかけて英会話を教えていただいた先生でもある。いただいたTシャツを眺めながら、仕事で慌ただしくなさっているなかで私のために時間を見つけて下さり、選んで購入し、帰国して送って下さった手間暇を大変ありがたく思った。
K社長からTシャツを送っていただいたのと前後して、現地で撮ったその100周年の様子が伝わってくるリグレー・フィールドの写真を送っていただいた。
K社長にお借りしたこの1枚の写真にはよ〜く見ると本当に臨場感があります。“ IT’ S THE PARTY OF THE SENCTURY “・・・祝っていますね〜、100周年!いいですね〜、中央の試合経過を伝える掲示板の “ WRIGLEY FIELD HOME OF CHICAGO CUBS “ というフレーズと電光掲示版の下の “ CELEBRATING 100 YEARS “ のメッセージが見えます。この写真が撮影されたのは、アリゾナ・ダイアモンドバックスとの試合中で、イニングは分かりませんが、” BOT “ (Bottom= 野球でいうところの回の裏)と表示されているところから、ホームであるカブスの攻撃中だと思います。あっ、5-1で負けてる・・・(苦笑)。メジャーリーグファンの方はこの写真を眺めながら一杯飲めるのではないでしょうか。私は飲めます(笑)。
1914年から2014年を意味する数字をシカゴ・カブスのエンブレムと同じ書体と配色にしているところにセンスの良さを感じた。
このエンブレムと上の写真の数字の字体を見比べてみて下さい。センスありますよね?(笑)
アメリカで何度か野球を観戦するチャンスに恵まれたが、リグレー・フィールドでの観戦が一番多く、5試合ほど観戦している。外野のフェンスに蔦が絡まっているのが特徴であるこのボールパークがどれほど好きかというと、メジャーリーグがオフシーズンである11月に休暇でシカゴを訪れたときも、野球のオフシーズンにも関わらず、何も行われていないリグレー・フィールドまで行き、写真を撮ってきたくらいだ。2012年のトラベラーズノートのポストカードキャンペーン “みんなのおすすめ旅スポット”には、このリグレー・フィールドを選んで応募して、幸運にも入賞した。
1993年にミシガンへ遊びに行った後でシカゴに寄ったときに初めてリグレー・フィールドを訪れた。そのとき観たのはコロラド・ロッキーズとの試合だった。1995年9月に野茂英雄さんが投げるのを観に行った。そのときの話は「Journeyman」というタイトルで以前書いた。野茂さんが投げる数日前にシカゴに入り、ロサンゼルス・ドジャースとの試合の前のカードだったサンフランシスコ・ジャイアンツとの試合を観戦した。平日のデーゲームだったにも関わらず観客が少なくなかったのは、リグレー・フィールドを楽しみに来ている人達が多かったためではないかと思った。
「野球は太陽の下でやるもの」というカブス球団オーナーの考えのもと、1988年までナイター設備をあえて設置しなかったのは、このボールパークに纏わる有名な話だ。その名残で平日でもデーゲームが多く組まれていたのだろう。
しかし、100年の歴史があるボールパークでのナイター設備の歴史はその約3分の1の30年足らずというのはなかなか興味深い。“風の街”と言われているくらいなので、9月の昼間で陽が照っていても肌寒いときがあった。リグレー・フィールドに到着してチケットを買い、自分の座席をチェックする前に、真っ先に場内のショップへ行きスエットシャツを買った。
本当に風が冷たく、寒かったので、そのときに買ったスエットシャツがこれです。今でも着ています。
シカゴ・カブスには、ハリー・ケリーさんという名物アナウンサーがいた。各ボールパークで7回表終了後に行われる “ 7th inning stretch “ で歌われる “ Take me out to the ball game “ は、リグレー・フィールドではハリーさんが歌っていた。シカゴ滞在中リグレー・フィールドに毎日通った1995年の旅では、当時既にかなり高齢だったハリーさんが放送ブースから場内に流れる音楽に合わせて “ 7th inning stretch “ を盛り上げていた。このリグレー・フィールド特有の “ 7th inning stretch “ を実際に体験したときに、シカゴでメジャーリーグを観ているのだと実感した。1998年に83歳で亡くなったハリーさんについては、いつか「訪れた証」で書くつもりである。
この話を書いている今現在、彼の地ではワールドシリーズが、我が国では日本シリーズが大詰めであった。その所為なのか、1993年に初めて訪れたときのこと、結局はリグレー・フィールドに行くためだけの旅になった1995年のシカゴへの旅のことが次から次へと思い出されてきて、書いていてこの話は切りがなくなりそうになった。
リグレー・フィールドを今後数年かけて修繕していくニュースをインターネットで見た。修繕なので丸っきり別のボールパークに生まれ変わることはないと思うが、まだそれほど修繕が進まないうちに、もう20年近く訪れていないそのボールパークに足を運びたいと切に思った。カードは何でもいいので、天気がよい昼間に目の前でカブスの選手達がプレーしている様子をまた観たい。
しばらくご無沙汰してしまっているK社長とは近々会食することになっている。欧米への出張が多く、ナイフとフォークで食べるものには飽きていらっしゃるだろうから、築100年がそろそろ見えて来た建物で営業している店で今が旬である上海蟹でも食べながら、最近のシカゴの様子を伺おうと思っている。 100…私が書くストーリーも100作目までいくのだろうか。
追記: K社長がTシャツと一緒に送って下さったガムです。選手達が試合中噛んでいる噛みタバコをイメージしたもののようで、千切りになったガムが入っています。量は好みで調節できます。ちなみにこれらはリグレーのガムではありません(笑)。
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