『On The Road ・1』

 この話は2008年3月に書いてトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第6作目です。

 イラク戦争が始まって5年目に突入したという。開戦以来犠牲になった方々とその家族、現在も前線に赴いている方々とその家族を思うと胸が痛む。何枚か持っているニューヨークの絵葉書に写っているワールド・トレード・センターが跡形も無くなったなんて今でも信じられない。約16年前に中にあったメキシコ料理の店でコロナビールを飲みながらランチを食べたのを思い出す。
 世界中を震撼させた2001年9月11日の同時多発テロの1ヶ月後失業した。大学卒業以来約12年勤めていた会社の業績がテロの影響を受け始めたためだ。「リストラ」や「失業」なんてテレビや新聞・雑誌の世界の話しだと思っていた。まさか自分が報道上の「失業率○パーセント」の一部に含まれるようになるとは夢にも思わなかった。
 突然生活が一変したため今後の計画なんて立てようとは全く思えなかった。友人・知人・取引先にひたすら失業した旨を知らせる挨拶状を書いた。ただひたすら無心に毎日書き続けた。それしか出来なかった。
 約200枚の挨拶状を出し終えた一月後、学生時代からお世話になっている方々の一人から連絡をいただいた。御自身で会社を経営し翻訳や通訳をしている方からだった。僕からの挨拶状を見て驚いたとのことだった。
 翌2002年に控えていた日韓共催のワールドカップで国内外からのメディアに対応する仕事があるのでやってみないかというオファーをいただいた。スポーツは大好き。でも、好きなのは野球、バスケットボール、アメリカンフットボールに格闘技。サッカーは日本代表のビッグマッチをテレビで観るくらいでほとんど興味なし。Jリーグの試合を会場で観たこともなかった。 
 近々に再就職する予定もない。このような国際的行事に関われば職務経歴書に一行加えられるだろうと考えてオファーを受けた。しばらく日本で開かれることないであろうワールドカップにその程度の動機で携わったのはサッカーファンには申し訳ない限りである。
 国内10会場ある中で僕の担当は札幌と大分。国内会場の中の最北端と最南端である。自分の担当会場での試合日程が終了したらまだ試合が行われている会場へ手伝いに行き、最後は決勝戦のある横浜で終わるということだった。失業するまでの最後の6年余りは月2,3回は海外出張していた。「旅とは離れられない生活がまた始まるのかな」と独り言ちた。担当の札幌・大分が終わった後で、宮城・大阪・埼玉・横浜と回った。
 5月末から始まる大会に向けて5月下旬に札幌へ行ってから6月末の横浜での決勝戦が終わるまで旅に出ていた。ミュージシャンのツアー並みの日程で正に “On The Road” の生活であった。
 海外へのテレビ放映の時間が考慮されていたため試合開始は午後8時近くがほとんどだった。会場内にあるメディアセンター何故か午前中の早い時間から開場していた。午前中から来るメディアの人間なんてほとんどいなかった。多種多様な問い合わせに対応し、試合が終わってもメディアセンターから最後の一人が立ち去るまで会場を後に出来ない長い一日の積み重ねだった。会場を後にするのはほとんど日付が変わってからだった。
 宿泊先と会場の往復のみでその土地を楽しむ自由な時間など皆無。メディアセンター内に設置されているテレビは他会場で行われている試合が放映されているだけなので、日本国内がどれだけワールドカップで沸いているのかは分からなかった。毎朝栄養ドリンクを流し込まないと体が目覚めず動かない毎日であった。全く経験のないスポーツの仕事、全く関わったことのないイベント関係やサッカー関係の方々との係わり合いから生じるギャップに四苦八苦した。今でも当時の事をたまに思い出すが、今までの人生で最も過酷で長い旅だったと思う。
 異国で起きたテロが遠く離れたアジアの国々の一国に過ぎない日本にいる一人の日本人の僕の人生までガラリと変えてしまった。12年余り積み上げてきた定職を失ったが、ワールドカップという誰もが関われる訳ではない仕事に携われた。訪れたその土地その土地でいろいろな方々と出会い新たな人脈も得た。
 テロで失ったものは本当に大きかったが代わりに得たものは決して小さくないとは思う。幸いにも現在は定職に就いている。しかし、その仕事を失業前の仕事ほど心底楽しめていない。その点を考えるとテロによって終わりが見えない長い旅に放り出されたような気がする。僕の “On The Road”はまだまだ続いている気がする。


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