宗教的なものにひたひたに浸からされてたこども時代
※ヘッダー画像は無関係です
今考えると母親が本当にイカれていたなと思うし受け入れる夫(父親)の気持ちは慮る……こともできないな、と改めて思う。
元々夢見がちでスピリチュアルな物が好きだった母はサイババにもハマったし上祐イイ男〜とか細木先生がとかプレスリ〜♡とかペンギン飼いたいとかいつも怒ってるかはしゃいでるかだった。
夢占いが好きで、観た夢の景色を私に話して絵に描かせたりしていたので、私自身も小学生くらいから夢日記を付けたり夢の意味を調べる習慣ができ、暗示を真剣に受け取っていた。
母は、亡くなった母(私の祖母)が墓前で寒い寒いと訴えていた夢を見たと慌てて墓に行ったところ墓石がズレていて骨壷が雨水に浸かっていたらしい。
もしかすると何かを受信する資質はあったのかもしれない。
何がきっかけとなったが知らないが、ある時から近所のお寺の住職に母が入れ込んだ。
先生、先生、と呼び4歳くらいの私を携えてそれはそれは足繁く通った。
「神様(?)のお菓子だよ」と落雁が貰えたし、美味しかったのでお供するのは嫌ではなかった。
無縁仏の中心に立つ観音像?の足元にすがる赤ちゃんみたいな子達が可愛くて眺めていたっけな。
そして摩訶不思議な日は訪れた。
母が、「◯◯(長兄)は名前が本人より強すぎるからノリトシにする。◯◯(次兄)はヨシミツという名前にしないと13歳で死ぬ。
◯◯(私)は名前が良すぎて1人で生きていけてしまうから結婚相手が見つからないかもしれない。だからすこしバカにして男を頼れる女にするにミホに改名する」と改名宣言をした。
全員まるっきり本名かすりもしない名前である。
父親の理由は忘れたけどアキヨシにされていた。
私達兄妹は子供だったので従う以外なす術はなく、戸惑いつつ受け入れた。父親はどう思ったのだろう。大反対、みたいな抵抗は記憶にない。
これがまぁ案外定着するもので周りの人や親戚関係もあっさり?受け入れ改名した名前で呼ぶようになった。兄達は途中で奇妙さに気が付き本名で呼べと訴え続けた為、中学生くらいで元の名前に戻ることができた。
私は小さいうちに巻き込まれた為定着してしまったので、未だに親戚にはミホちゃんと呼ばれている始末。面倒なので地元に帰ったらミホとして帯をギュッとしている。
改名後、家族全員1つ5000円の仏像だかなんかが刻まれたペンダントを渡された。肌身離さず付けるようにとのことだったが幼児の私には大きすぎるし重たいので小さなポーチに入れて持たされていた。幼稚園教諭も「あー。」とか思っていただろうな。
なんといっても子供の私。あっさりとペンダントを無くした。
母にそれを告げると、酷く叱られた。
そして何か私が失敗をする度に「ペンダント無くしたからだわ」と呟くのである。
飛行機墜落事故をテレビで観ると「神様が人間を減らそうとしてる」と言った。
4歳の私は「そうなんだ」と怖くなった。
それから何かミス(転んだり、物を壊してしまったり)する度に「ペンダント無くしたからだ…」と落ち込むようになった。
とても怖い夢の中で、早く起きたい!と必死で願ったらライフル銃を持った外国人の兵士がコンバットブーツで私の太ももを踏みつけ「まだまだ覚めさせねーぜ」と言った。靴底の濡れた砂利が太ももにめり込んで痛かったのを覚えている。
三兄妹で旅の道中、子沢山のお宅に泊めてもらうことになったが朝になると兄達は私を置いて先に行ってしまった悲しい夢。
色とりどりのお花が沢山咲いていて温かくて甘い香りが漂う情景。レモンイエローの空気に包まれて仔猫が戯れあってる。自転車の車輪はマーガレットでできている。ゆるいカーブの坂道をゆっくり降りたら母親が笑顔で腕を広げて待っていた。
我が実家は一人一人が個人事業主です!的なキャバクラみたいな雇用システムとなっており、金銭面以外で両親から育成サポートを手厚く受けた記憶がない。
家業が忙しかったのと時代もあるが私は5歳から1人でバスに乗って自分の服を買いに行っていた。
小1の頃にはファミレスや軽食屋で夕食をとっていた。今自分が親になって恐ろしく思うが、母はそれが誇りと思っていたらしい。
「なんでも1人でやっちゃうの!」いやいや。
ブラジャーは何故か買ってもらえなかったので友人からお下がりを貰った。
制服の採寸に1人で行こうとしていたらブラジャー友人のお母さんが一緒に行こうと声かけてくれた。
中学生ともなれば、武富士のATMに行って親の借金返済の振り込みを代わりにやっていた。
薄々分かってたけど
圧倒的に私には母親エキスが不足していた。
中学生になってもまだおかあさんオリエンタルランドにいた。
母の悪口なんて、友達同士で話したって誰からも咎められないし本人にバレないのに「バレたら怖いからお母さんの悪口言う時は、おばあちゃんがって言うね」なんて怖がっていた。
両親が離婚するときも母に「お母さんについてくって言え」と脅されて怖くてそのように言った。
まぁ父親親権になったけども。
中2の頃高熱を出した。
母は民間療法も大好きである。
何故か香ばしく炒めてしまった熱々のネギを手拭いで首に巻かれ、
「お寺のお札で作った炭」を食べるように命じた。
勿論断ることはできない。一口、一口、炭を齧って白湯で飲み込んだ。
次第に私は炭のシャリシャリとした食感の良さに気付いてしまい「美味しいかも?」と完食したほど高熱に浮かされていた。
今でも短所の中から長所を見出すスキルがあるけど自己防衛本能なのかもしれない。
その後絶対自然治癒だと思うけど解熱した。
ああ、こういう成功体験からまた母は力を付けてしまう。
しかし、「なんかなんかなんか変じゃね?炭って食わねーだろ。なんかなんかなんか変だ」とおかあさんランドの綻びを見つけた。
そして中3の夏休みに、私は逃げた。
離れて暮らす父親と兄夫婦の家に。
それから母親とは絶縁状態になった。
10数年が経ち、
妊娠中に知らない番号から電話がかかってきて、受けると母であった。
「ゲンキー?あんたはねー◯◯なんだから◯◯しなきゃだめよ」
何事も無かったかのように突然おかあさんトークは始まり、お馴染みの決め付け節が耳を撫ぜる。
もう耳には入らなかった。でも喉が苦しくなってきて、「体調悪いから」と言って切った。それから今までかかってきていない。
「先生」に何故か五千円を黙って渡されたことがある。住職が小遣いを渡すって何か変だ。
母と離れてからそのお寺とは疎遠になり、全く関わっていない。
母から逃げたことは後悔していない。
周囲の人にいつか後悔するから、親になったら分かる等説得されたが、いや一回炭食ってから言えよと思う。
次兄から聞いたのだが、飲み屋で知り合った人がそのお寺と関わりがあったと分かりアルアル話で盛り上がった。
その人の家族も改名を勧められたというので、「なんて名前だった?」と訊いたところうちと全て同じ名前だったそうな。
おしまい。