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GASLIT STREET C12 「答えが出ない」

 
 郵便受けに手紙を入れて立ち去ろうとした配達人をオリンダが呼び止めた。

「おい、ちょっと待った」 
「──はい?」

 オリンダは郵便受けを開けると、朝の配達の内容を検めて「ああ、やっぱり」と呟きながら手紙を取り上げた。

「これはうちじゃないよ。リリーもローズもカメリアもここの家にはいない。いるのはアイリスだ」
「でも、住所がここに──」
「年に5回はあるんだ。何をどう間違えたのか、エンディコットの本家に行くはずのパーティーの招待状がうちに来る」

 はあ、と息を吐く配達人に手紙を突き返すと、オリンダは玄関に足を向けた。

「じゃあな、ご苦労さん。──たまには行ってみればいいのに、読みもしないんだから」

 玄関ドアを開けて家に戻る。2階の洗面所から水音が聞こえて、オリンダはアイリスの起床を悟った。階段を登り、「今いいか」と開いたままの洗面所のドアを2回叩く。
 洗面所では鏡に向かったアイリスが支度をしていた。

「別にいいわよ。顔が泡だらけでよければ」

 アイリスが白い顔を向けるので、オリンダは手を振った。

「いいよこっち向かないで。鏡を見とけ」
「ああ、そう……。外、何かあった?」
「配達だ。請求書の時期じゃないから、何かと思って見てみたら案の定、本家宛のパーティーの招待状が間違ってウチに来てた。……あんた宛じゃない」
「パーティーじゃなくてボール。あそこの家はボールって呼ぶことに拘るの」
「笑える。別に興味ないだろ?」
「うん、ない」
「……あのさ」
 
 オリンダは歯切れの悪い声を出す。

「昨日はどうだった。弁護士は見つかった?」
「まあ、見つかったといえば見つかったかな」
「そうか。……あのう、昨日の朝のことだ」

 顔の上で動いていたアイリスの手が止まる。

「……何?」

 オリンダは恥じ入るようにアイリスから視線を逸らした。

「あの時は言い過ぎた。……訴状を見てビビったんだ」
「別に気にしてない。それに、……あたしも悪かったわ。軽く構えて、あなたの気持ちを考えてなかった」

 アイリスは「ごめんなさい」と言って、泡の塗られていない目をオリンダに向けた。

「いい、いいからあっち向けって」

 オリンダが慌てたように背を向けるので、アイリスはくすりと笑う。

「おばけに見えた?」

 オリンダは背中を向けたまま、低い声で呟いた。
 
「──刑事裁判の経験があるんだ」
「……何て?」

 アイリスは思わず聞き返す。

「20年前の火事の時、劇場の雑役だったあたしが放火を真っ先に疑われた。あんたの伯父さまの口添えがなかったら、あたしは今ここにいない。とっくに」
「……そんなこと、今まで一言も」
「言わなかった。別に言うことじゃないと思って。あの時訴状を見て混乱したのは、それもあるんだ」
「なんであなたが疑われたの?」
「さあね。あたしが黒人の使用人だからかもな。……あんたが伯父さまにあの夜のこと、とくにあたしが一緒にいたこと、覚えてる限り話してくれたんだろ? あんたと伯父さまがいなきゃ、あたしはとっくにムショ行きだ……やってもいない罪でね」

 アイリスは何かを言いかけて、それが何か分からずに口をつぐんだ。(『あのオヤジ』呼ばわりはあんまりだって……オリンダはやたら伯父さまの肩を持ってた)
 アイリスはオリンダの背中に目を向ける。オリンダは肩を窄めて、首を振った。

「あの紙に書いてあること全てが本当の事とは限らないってことだ。それを分かってたはずなのに、あたしは始めから決めつけてた。あんたが法を犯したって、そのことで頭がいっぱいになった。──反省してる」

 アイリスはそこまで聞き終えると、深く息を吐いた。

「心配掛けてごめんなさい。──本当に」

 アイリスはオリンダの背中から腕を回し、きつく抱きしめた。「教えてくれて、ありがとう」

「こっちこそ、あの時命を救われた。感謝してもしきれない」
 
 オリンダは赤い目で頷きながら、アイリスの二の腕をぽんぽんと叩く。
 
「よし、もう話は終わりだ。顔の泡を落としてくれ。……服に泡が付きまくってるよ」

CHAPTER 12
AMBIVALENZ


 杖を持ったローズが事務所の扉をくぐると同時に、協会員たちの視線がいっせいにそちらへ向く。 

「おはよう、皆」ローズは張りのある声で、その場のメンバーに声を掛けた。「ホテルツアーもないのに、みんな早いわね」

 ローズ、と声を上げたのはマークだった。「君、杖を使ってるの?」
「そうよマーク。あなたも使いたければ使っていいわ」
「大丈夫なのか」

 問題ないわ、と言いながら、重い動きでデスクに着く。座ると同時に少し顔を顰め、周りを見回してローズは首を捻った。

「あら──なんだか鉛筆が多いわね」
「カミーラが削ってた。落ち着くんだとさ」
「彼女はどこ?」
「ヴィレッジの教会じゃないかな」
「そういえばパーティは、もう2日後だったわね」
「……足、悪いのか」

 ローズは息をついて、杖を持ち上げた。

「これのこと? 病院を出る時に借りたの。爪先がひどい有り様になってたから、心許なくて持って出たはいいものの……病院を出た途端、なんだか元気になっちゃって」
「じゃあ、復帰ってことかな」

 マークが笑みを浮かべて言う。ローズはマークを見返し、次いで部屋を見渡す。ニコラとヴァネッサ、他に2人の協会員。皆、ローズの姿を見てホッとしたような笑みを向けていた。

「ただいま。心配かけたわね」

 ローズの言葉に、ニコラは頷いて答えた。「おかえりなさい、会長」

 ローズは神妙に頷いて返す。

「ホテルのことは……騒ぎ立てないでおきましょう。変な噂が立ってツアーに差し障りがあるといけません。色々と言いたいことがあるのは承知していますが、くれぐれも……口は慎んで」

 ローズの言にわかりました、と協会の面々は口々に答えた。ところで、とローズはマークを見る。

「カミーラは教会って言ってたけど、あなたはどうしてここに? 彼女を手伝わないの?」

 いやあ、とマークは手を振った。

「僕は必要ないかと」
「あなたはパーティで何をやるの?」
「それは当日カミーラから聞くよ」

 ローズはマークに視線をやったまま目を見開いた。ニコラに視線を移し、「あなたも?」と首を傾げる。

「あ、ああ。当日に聞くつもりで」

 ローズは男2人を交互に見やり、大きく溜め息をついた。「ほんとうに……」

 言い掛けた言葉を飲み込むように、ローズは首を振る。
「──あなた達2人とも、ヴィレッジの教会に行ってちょうだい」
「え? なんで」

 マークが抗議の声を上げる。ローズは続けた。

「カミーラを手伝ってあげるのよ。ほら──すぐに行く!」

 有無を言わさぬローズの気迫に、ニコラとマークは無言で事務所の扉へ向かった。

   ⚜⚜⚜

「おい、タクシー」

 カールッチ・ビルを出て、通りを走るタクシーにニコラは手を挙げた。運転席から顔を覗かせた運転手が渋面でそれに応じる。

「悪いな、シフトが終わるんだ」
「まだ昼だぞ?」
「休憩だよ。──じゃあな」

 何だよあれ、とニコラは溜め息を吐いた。マークは通りの向こう、ニューヨーク・デリのテラス席に見知った顔が見えて、ニコラに声を掛けた。

「ごめんニコラ、ヴィレッジには君1人で行ってくれ」
「はあ? 会長に殺されても知らないぞ。言っとくが、何か聞かれたら俺は正直に言うからな」
「それでいいよ。……悪いね」

 言って、マークは通りを横断する。
 ニコラは肩を竦めてそれを見送り、すぐに次のタクシーに狙いを定める。「タクシー! おい、待てよ! あんたも昼休憩か?」

 マークはテラスの柵に両手をつくと、テーブルで頭を抱えた新聞記者に声を掛けた。

「お疲れフレッド。朝刊読んだよ」
「ん……ああ、マークか」

 マンフレッドの顔には疲労が見えた。目頭を押さえ、マンフレッドは大きく息を吐く。テーブルの脇に置かれた朝刊の見出しには、フィニアスの元秘書の行った土地取引についての見出しが書かれていた。

「都市計画委員会の代表に不正取引の疑惑、か。もっと見出しで煽れそうなのに」
「彼の場合、あくまでも疑惑だよ。取引を実行した側近は行方を眩ませているからな。それに……」
「いちばんの罪を重ねた張本人……ヴィクターは未だに野放し。体良くフィニアスに全ての罪を擦り付けてる。ただ、君の地位向上には役立ったんじゃない?」

 マークの言葉にそうだな、とマンフレッドは呟く。
 
「調査報道というと、いつも呑気に構えているように見られている。それで速報担当にはいつも目の敵にされていたんだ。今回の一件で、見る目が変わればいいんだがな」

   ⚜⚜⚜

「カミーラ、お疲れ様。手伝うことある?」

 アイリスが声をかけると、教会で信者と話し込んでいたカミーラが振り返った。

「アイリスさん、おはようございます」
「精が出るわね」
「ええ、クリスマスが近いですから」

 カミーラと話していた信者の男はアイリスに視線を移した。上背のある、50代半ばのダークブロンドの巻き毛が特徴的な男だった。
 
「どうもです。協会の人ですか」
「ええ。アイリスです。アイリス・エンディコット」
「フィンバー・オレイリーです」

 彼は青い目をにこやかに細めると、アイリスの手を握った。「当日は妻のノーラと、仲間で演奏するんで」
 
「それは楽しみ。楽器をやるの?」
「ええ。私はフィドル、妻はピアノを。他にも仲間の何人かで笛やらバンジョーやら、楽しくやらせてもらえれば」
「大歓迎よ、賑やかになりそう。……フィドルってヴァイオリンのことよね。ヴァイオリニストなの?」

 アイリスの問に、オレイリー氏は眉を上げた。

「そら違いますね、私はフィドラーです。ヴァイオリニストってのは譜面通りに弾けることをことさら自慢する連中のことです」
「じゃあ……フィドラーは何をするの?」
「魂で弾く。聴く人を笑わせて、踊らせる。……ときどき泣かせることも」

 なるほど、とアイリスは笑った。
 
「それはますます楽しみね」
 

 「人手は大丈夫そう?」とのアイリスの問に、カミーラは「任せてください」と頼もしい返答を寄越した。

「非番の惣菜屋さんを何人か捕まえておきました。食材もうーんと用意してくれますよ」
「うそ……」
 アイリスは驚きで口に手をあてる。「何だか見直しちゃった」
「はい、見直してください」
「……褒めたほうがいい?」
「褒めてください」

 すごいわ、とカミーラをハグする。そのとき階段に人影を認めてアイリスは身を固くした。リチャードが複雑な顔をして、階下を覗きながら降りてくるところだった。

「アイリスさんもお友達、いっぱい連れてきてくださいね」
「ええ、そうする」

 カミーラの言葉に生返事で答えると、アイリスはリチャードに歩み寄った。カミーラは信者たちの輪に戻る。アイリスは腰の後ろに手をやって、固い顔のリチャードに声を掛けた。

「……どうも」

 リチャードは少し考えて、階段上から「ごきげんよう」と小さく答えた。アイリスは大仰に息を吸って、絞り出すように言った。

「あの後クイーンズに行ってきた。……ありがとう、いい人そうだったわ」
「ハワードはいい弁護士だ。君のお眼鏡に適ったようで何より」
「彼、あなたのこと心配してたわ。聞かれたの……色々と。どうしてたんだって」
「へえ……何と答えた?」

 リチャードは何気ない風に訊ねたが、僅かに潜められた眉から困惑が滲んでいた。アイリスは首を振る。

「ちょっと訳あり、とだけ。だって何も知らないもの、あなたのこと」
「……知りたきゃいくらでも教えてやるよ。名前はリチャード・H・ウィッテンバーグ」

 言って、リチャードはアイリスに向き直った。

「妻はいない。1度、いいところまでいった女がいたが、別れた。理由は僕だ。対話や感情を切り捨て、大義ばかりを追い掛けていた。趣味はこれといって無いが、夏になるとイースト・ダーラムへ乗馬に行く。年齢は、42歳」
「なぜそんな事を?」
「ことさらに何も知らないと文句を言うからだろう。……興味が無いなら聞き流せ」
 
 リチャードは眉を寄せてアイリスを見ていた。何故か目を逸らせず、アイリスは小声で呟く。

「結構おじさんなのね」
「はっきり言う子だ」
「なぜ馬に?」
「……気が付くとすぐに、生や死について考える。少なくとも馬に乗っている間は何も考えずに済む」
「恋愛で、失敗を?」
「人付き合いが苦手なんだ。会話を楽しむってことができないたちでな。こんな会話はつまらない、役に立たない、早く終わって欲しい。そればっかりだ」
「その人に……最後に掛けられた言葉は?」

 リチャードは苦笑した。

「嫌なことを聞く。……『この偽善者』と、ただそれだけだ。別に何も感じなかった。終わるべくして終わった関係なんだろう」 
「……弁護士先生は、心にぽっかり穴が空いているみたい」
「前はきっとそれを埋めようとして、他者を傷付けていた。今はもう……この穴も含めて僕なんだと諦めた。この、他人には埋めようのない空洞も含めて」 

 アイリスは頷いた。リチャードから視線を外して、教会の祭壇に目を移す。祀られたいくつもの燭台と、金の十字架が目に入った。

「興味が無いなら聞き流して。──パメラ・アイリス・エンディコット。8歳の時、家と家族を喪った。自分の心の殆どを占めていたものを失って、空洞が残った。神様はいろいろ埋め合わせしたつもりでいるみたいだけど、それから20年間──あたしは少しも納得できてない。埋められないまま、その空洞は今もある」
 
 リチャードは眉を寄せてアイリスの横顔を見ていた。

「あたしには今、悩みが2つある。ひとつはカミーラに『友達を沢山連れてこい』と言われて人生最大のピンチ。もうひとつは……」

 言い淀むようにアイリスは言葉を切って、リチャードに視線を戻す。

「目の前の男の人を、信用すべきか否か迷ってる」

 アイリスの言にリチャードは腰に手を当て、首を振った。

「何がそんなに引っかかる」
「ヴィクターとのこと。あいつと親しかったって言ってた」

 ああ、とリチャードは頷く。「昔のことだ」
 でも、とアイリスは食い下がった。

「もしヴィクターがまた手を組みたいと言ってきたら? あなたは断れる?」
「当たり前だ。僕まで道を誤りたくはない」
「もし『改心した』と言って近付いてきたら?」
「法の裁きを受けてもらうだけだ、もう手を組むことはないだろう。神に誓って」
「誓わなくていい。どうせ……」

 アイリスは顔を伏せた。
 神様が見ている、などとは思わないのだろう。そう喉を突いて出そうになった。

「……どちらにせよ、味方だと確信も持てない相手に訴状は見せるべきじゃなかったな」

 リチャードの言葉にアイリスは顔を上げる。

「なぜ?」
「住所が書いてある。敵なら覚えるだろ」
「……覚えた?」
「ああ。言っとくが敵じゃない」

 アイリスは深く息を吐く。
 
「……ただ、辛かったの。あたしに嘘をついていた事が。身を守るためだったってことは分かってる。でも」
「話してもいいと分かったから全て話しただろ。……もう隠し事はない」

 なだめられ、そうよね、とアイリスは顔を伏せる。(分かってる)自分の失望は無意味なものだ、と頭では理解していた。リチャードが記憶喪失を装ったのは安全の為で、肝心の中身についても所詮は過去の事であり、変えようのないことだ。何を言っても仕方のないことなのに、自分がなぜ必要以上に失望と憤りを覚えているのか、アイリスには分からなかった。
 ──あるいは、失望を覚えている自分自身に憤っているのかもしれない。

「アイリス」
 
 リチャードはアイリスに囁いた。

「少し、外を歩かないか」
「──いいえ」
 
 アイリスは拒むように首を振り、リチャードに背を向けた。

「……1人になりたい」

   ⚜⚜⚜

「朝から晩まで石炭運び込んだって船倉の半分までも届きゃしない。おまけにあいつ、俺の運んだ往復分までちょろまかしやがって」

 ドラム缶にもたれてビール瓶を呷る人足仲間の言葉に、ジェイクはまあな、と頷いた。
 潮を含んだ重い風に、油と焦げたパンの匂いが混じる。波止場のはずれにあるフードワゴンでジェイクはパンをかじっていた。彼の言葉通り、現場を仕切る監督は人足一人ひとりの働きを正しく評価することにはさほど関心が無いようだった。

「──立ったまま寝てるんだ、あいつは」
「だからって休憩にそんなもの飲んでると、余計に目を付けられるんじゃないか?」

 悪態を聞きながら、同時にいい時代にもなった、とジェイクは思う。現場の隅から隅まで見渡せば、不満を探すのは難しくない。けれどもこうして空き時間に空腹を満たせる程度には、港湾労働者の待遇もまともになっている。
 もっとも、脇にいる同輩のように勤務中に酒を呷る勇気はジェイクにはなかった。
 
「……おい。あの女、俺のこと見てるぜ」

 言うと、人足仲間は通りの向こうで立ち止まった紺のコートの女を示し、煤で汚れた顔を綻ばせた。ジェイクは苦笑する。

「お前じゃないよ。恐竜の頭が珍しいんだろ」

 ジェイクの言葉通り、ワゴンの脇には小型トラックに積まれたままの、トリケラトプスの頭蓋骨が裸で展示されていた。博物館の展示室に飾られるはずが、なぜか展示室の完成前に港へ着いてしまったらしい。停泊料の節約の為だろうか、そもそもの出港日が前倒しになったと噂になっていた。

「女がこっちに来る。……あの格好、警察か?」

 こちらへ早足で近付いてくる女に同輩が身構えていた。女の顔を見て、ジェイクは思い当たったように眉を寄せる。

「たぶん……警察より厄介かも」

 ジェイク達がテーブル代わりに使っていたドラム缶の前で女が立ち止まった。

「暇そうね、ジェイク」

 知り合いか、と同輩がジェイクを見た。ジェイクは女に首を振る。

「ちょっとしたら戻るよ。石炭がもう一山待ってるんでね。悪いな、アイリス」
「少しだけ話せる? すぐに済むから」
「……手持ちなら無いぞ」
「カツアゲじゃない」

 同輩が揶揄するように笑った。「なら娼婦か?」
 言って彼はビールを一口飲もうとした。その時、ビール瓶をアイリスが毟るように奪う。

「──おい、何すんだ。俺の酒だぞ」
「人足が空き時間にお酒飲んで怪我したら、責任をとるのは会社? それともあなた?」

 アイリスは吐き捨てると、天を仰ぐようにビール瓶を呷る。同輩は慌てたように手を振った。

「おいおいおい、落ち着けって」

 ジェイクは呆れたように息を吐く。「……イカれてる」
 喉を鳴らしながらビールを飲み干したアイリスは、ドラム缶に空き瓶を乱暴に置いて「お礼はいいわ」と同輩に笑んだ。

「……それで?」とジェイクはアイリスに声を掛ける。
「話ってなに」
 
「何だっけ。……ああ、そうだ」

 アイリスはハンドバッグを漁ると、中からビラを1枚取り出してドラム缶の上に置いた。

「イエス様はあなたを愛しています」
「ラッパ飲み直後の言葉がそれかよ」
「教会で食事を振る舞うの。感謝祭っていうか、クリスマスっていうか……30羽の七面鳥に興味ないかしら」
「金が余ってるなら電車賃返せ」
「あたしの財布から出ないわよ。……寄付と公費でやるの」

 同輩がジェイクを見て声を上げた。

「やっぱりコイツ警察だよ。NYCPSって、おっかないワッペンも着いてる。何の略か知らないけど」
「ニューヨーク市、保存協会」アイリスが脇から訂正する。「この街を守る番人だけど、治安じゃなくて歴史を守ってる」

 ジェイクは生真面目な顔でビラに視線を落とした。

「わざわざ呼ばなくても、金に困ってりゃ勝手に集まるだろう?」
「そうだけど、様子を見に来てよ。楽しい催しや誇り高い精神に触れて、ニューヨーク市保存協会は最高! ……って周りの人に言い広めて。七面鳥は食べなくていい」
「なんで俺がそんなこと」
「……それは」

 アイリスは首を掻いた。

「友達を呼んでくれって……言われたから」
「……なるほど」

 ジェイクは少し考えて、アイリスの意を汲んだように頷いた。「余計な奴も呼んでいいか? 迷惑は掛けない」
「ええ。……ありがとう」
「警察よりいい公費の使い道かもな」
「あたしが警察だったら、この街に悪は栄えない」

 言って、アイリスは小さく笑った。ジェイクも笑みを返す。

「ところで何なの、これ」

 アイリスがワゴンの脇のトリケラトプスの頭骨を指で示した。ジェイクは「ああ、こいつは」と軽い調子で答える。

「ジョージだ、おれの親友。無口だけどいいやつ」
「確かに無口ね。彼も教会のイベントに来られる?」
「どうだろう。こいつ、病気がちだから……」
「顔色が悪いわ」
「ああ。そっとしておいてやれ」

 それじゃあね、と背を向けるアイリスにああ、とジェイクは手を上げて答えた。空の瓶を振って、隣の同輩が虚しそうに呟く。

「30羽の七面鳥に同情するよ。……ぜんぶ、あいつがシメるのかもな」

   ⚜⚜⚜

「さっき、こないだの嬢ちゃんが早足で出てったぞ。お前さんが何かやらかしたのか?」

 教会を出てすぐ脇の壁にもたれて飲んだくれていた髭面のフランクが、リチャードに話しかけた。リチャードは呆れて肩を竦める。

「──ニューヨーカーなんてみんな早足だろ。またここで酒飲んでるのか? フランク、教会だぞここは」 
「教会は出会いの場だ。お前さんにとってもそうだろうが、リチャード」
「……まぁな。フラれたけど」

 苦笑して、リチャードはフランクの隣に腰を下ろした。

「記憶の引き出しが開かなくなった振りをしてはみたものの……それを彼女に見抜かれた。しかも悪い事に、その引き出しの中身がさらに彼女を失望させるものだらけだったらしい」

 リチャードが開陳した言に、はん、とフランクは歯の抜けた口の端を上げる。

「平たく言やあ、嘘がバレたってことかい」
「そうだ。嘘がバレた」
「いけねぇな。ここはなんたって教会だぜ? それに、あの子に恐らく半端な嘘は通じねぇ。目を見りゃわかる」
「……返す言葉もない」
「だが、嘘を正そうって気がある奴を女は嫌いじゃねぇもんだ」
 
 どうかな、と呟きながらリチャードは、まだ晒していない引き出しの中身のことを考えていた。(パメラ・スターレイ……だったか)
 フランクは思案するリチャードを見てにっと笑う。

「お前さんはいい男だ。根が悪ぃだけで」
「……根は悪くないって言ってほしかったね」 
「こんなとこで礼拝サボってる悪ぃ根っこも込みであの子に晒してみろって話よ。……勝負はそれからだ」

 風に乗って、礼拝曲が聞こえた。(汝ら我を愛せば、か)聞きながら、リチャードは苦笑する。

「……酔ってるのにいいことを言う」
「しらふの俺じゃこうは言わねぇだろうな」
「しらふなら何と?」

 フランクは顔を引き攣らせて酒瓶を見た。

「──やめとけ。あの子にゃたぶん、骨が折れる」

   ⚜⚜⚜
 
 ジョニーが仕事場に戻ると、靴磨き用の椅子に掛けたアイリスが別の少年と会話を交わしているところだった。

「あ、来た。こんにちはジョニー」

 協会の紺のコートを着たアイリスはベンチから下りるとジョニーに声を掛ける。ジョニーは小さく笑った。「こんにちは。──誰かと思った」

「元気そうね」
「うん。実は今、常連の夫婦に頼まれてナッソーストリートまで出張してたんだ。どうしたの?」
 
「──お前をご指名だよ」脇の靴磨き少年が仏頂面で答えた。「つまんねえの」
 
 口を尖らせる少年の前に、アイリスはビラを1枚突き出した。

「──こんど、教会でパーティーやるの。君達も来る?」

 仏頂面だった少年の顔に光が差した。

「なにこれ?」
「アイリスがやるの?」

 ジョニーもビラに顔を寄せる。アイリスは大きく頷いた。

「あたしっていうか、仲間の皆でやるの。お金はいらない。どう? クランベリーソースのかかった七面鳥に、スープもあるわ」

「まじか」と目を輝かせる少年。ジョニーはへぇ、と感心したように声を上げた。
 アイリスはジョニーと目線を合わせるようにかがむ。 
 
「寒いのに出張なんて大変ね」
「まあね。でも違う奴に客をとられるよりマシさ。食べていくには、それだけ働いて稼がないと」
「……耳が痛いわ」

 アイリスの言葉に、ジョニーは首を捻る。

「アイリスは女の人だろ? 男が稼ぐんだから、アイリスみたいな女の人は気にしなくていいんだよ」
「……残念だけど、あたしが暖かい部屋で縫い物や料理をしている間に稼いで来てくれる殿方はいないのよ、今のところ」

 ジョニーは目を丸くしてアイリスを見返した。

「アイリスはどうやって生きてるの?」

 問われて、アイリスは苦笑して肩を竦める。

「さあ。生まれたついでにここまで来たけど、思えば色々あったわ。安い給料でお硬い家の家庭教師だったこともあったし、飲み屋で踊ってたことも。ほんと、毎日3食食べて身奇麗にしているだけで……息切れしそうになる」

 遠い目で答えるアイリスを、ボロのコートを着たジョニーが殊勝な顔で見上げた。

「……僕たちって案外、そう違わないのかもね」

   ⚜⚜⚜

 アイリスは港を離れ、劇場街を避けて南下した。時刻は午過ぎ。通りには色々な音がひしめいていた。馬車を引く馬の蹄が舗道を叩く音、上を過ぎる電車が高架を軋ませる音。アパートの下と上で言い争う住人どうしの怒号。
 それらを聞きながらアイリスは考え込む。
 ヴィクター一味の襲撃を退いてから、ここまで何の動きもなかった。もし彼らがまた何かをしでかすのなら、その予兆を見逃すことはできない。
 ──そして、リチャードの告白。
 ヴィクターに襲われ、行方を眩ませた議員の正体は、かつてファウラーズに抱えられていた弁護士だった。ヴィクターの次の一手が分からない以上、彼の関係者を無条件に信じることはできない。
 あの男を信じたい思いは強かった。アイリスの都合に最後まで、とは行かなくとも責任を持って付き添ってくれたし、警戒を解いてからは恐らく秘めておきたいであろう過去についても語ってくれた。
(あたしを騙す為に……)
 リチャードの協力を素直には受け入れられない自分がいた。仲間として意識する度に、モーリスの顔が脳裏に浮かんだ。
 腹立たしい、と思う。
 ローズの前に立ちはだかる障害を除くのに、あの男は間違いなく有力な存在だった。かつて敵の側にいて、それなりの情報を持っているのだ。
 それなのに。
 もし心からの善意だけだったとしたら、と考えずにはいられなかった。

(信じられなくても、信じた振りをすれば利用できる。……しっかりしろ、アイリス)

 一旦はリチャードを信用した振りをする。そのうえで、情報を聞き出す。……それだけのことをできない自分が腹立たしかった。
 疑心と不安から目を背けたくて、リチャードを教会に置いて逃げ出してしまった。

 角を曲がり、劇場街に入る。途端に煤けた空気が変わり、街が煌びやかになった。ふと、カールッチ・ビルの前に白いコートの人影を見つけた。アイリスは人影に近付いて、声を掛ける。

「ローズ」

 アイリスの声に、ローズは天を仰いでいた視線をアイリスに向けた。

「アイリス」
「……あなた、杖をついてる」

 アイリスの言にローズは苦笑する。

「もう、みんなそればっかり。これはただの飾りよ、足は大丈夫」
「飾りならもうちょっと何とかならない? それじゃあまるで、おばあちゃんみたい」

 アイリスが茶化すように言うと、ローズはくすりと笑った。

「病院の杖だもの。仕方ないわ」
「それで、事務所の前で何をぼんやりしていたの?」

 アイリスの問に、ローズは肩を竦める。
 
「ただ……ぼんやり」
「へえ? あのローズが?」

 ローズは気後れしたように顔を伏せる。
 
「正直に言うわ。ホテルへ行こうとしたの。最上階が荒らされたって聞いていたから、心配で。ただ、事務所を出たはいいものの」

 言って、ローズは首を振った。「足がすくんで」
「──ローズ」
「あの時のことを思い出して、怖くなった。背後が気になって仕方がないの」

 俯いたローズを、アイリスは抱き寄せた。

「無理しないで。あなたにはまだ、休みが必要」
「黒い影に後ろから覆いかぶさられて、気付いたら暗闇だった。少しずつ水に飲まれて、すごく……恐ろしかった」
「ホテルは平気、みんながいる。──ねぇ、よければ一緒にお茶しない?」

 アイリスはローズに腕を差し出した。「掴まって。すぐそこだから」

   ⚜⚜⚜

 リバーサイド・スプーンの席に、ローズとアイリスは紅茶を挟んで座っていた。
 さほど広くない店内には四角いテーブルが規則正しく並び、コップに差さったナプキンがいかにも清潔な印象だった。
 パンケーキがテーブルに置かれるなり、アイリスはテーブル脇からシロップのポットを取り上げ、メープルシロップをたっぷりと回しかける。
 ローズは苦笑まじりにそれを指さして、

「アイリス、いくらなんでもかけすぎ」

 と横槍を入れた。アイリスはふふん、とそれを聞き流す。
 
「こういうのはかけるだけ得なのよ」

 シロップをかけ終えたパンケーキが、陽光を受けて輝いていた。とろりと流れるメープルシロップが表面を覆い、溶けたバターと混ざり合う。アイリスは満足げにフォークで一切れを口に運んだ。ローズもそれに続いてパンケーキを切り分ける。
 一口食べ終えて、ローズが目を丸くした。

「……柔らかい」
「ほんと。美味しい」

 アイリスがフォークを下ろして頷く。「たまたま見掛けて気になってたの、このお店。よかった」
「紅茶にも合うわ」

 ローズは静かに紅茶のカップを持ち上げて一口飲む。アイリスは笑みを浮かべ、視線を残りのパンケーキに落とした。

「ローズとこんな風に話すの……久し振り」
「……そういえば、そうだったわね。せっかくマンハッタンまで通ってくれてるのに……おかしなことばかりで、なんだか慌ただしくて」
「おかしな状況に必要なのは、おかしな女」

 アイリスが誇らしげに言うので、ローズは「何それ」と思わず笑みを漏らした。

「色々あったけど……アイリス。あなたのお陰で何とか立ち上がれてるわ」
「お役に立てて何より。……でもまだ終わってない。ツアーが再開して、滞り無く軌道に乗るまでは付き合うから」
「そう──」

 言って、ローズは紅茶を口に運んだ。「……その後は?」

 聞かれて、アイリスは口に運びかけたフォークを下ろした。

「その後って」
「ツアーが再開した後。スカーズデールで職探し?」
「……そうなるかな」

 でも、とアイリスは続ける。

「助けが必要ならいつでも行く。何でもやるから、その時は呼んで」

 ローズは小さく首を振った。
 
「ありがとう。……と、言っておくべきなのでしょうけど」

 もの言いたげなローズの顔に、アイリスは眉を寄せた。

「何か問題が?」
「いいえ、違うの。……むしろ、あなたが心配で」
「──あたし?」

 そう、とローズは頷く。

「私の為に色々よくしてくれて、ほんとうに感謝している。でも、同時に反省してるの。……あなたに甘えてしまって、付き合わせてる。だってアイリスにはアイリスの人生があるのに」
「あたしがあたしの人生を歩めているのはローズのお陰。同じ星に向かって進む同志じゃない」

 アイリスは当たり前のように言う。「ローズがいるから強く、正しい自分になれるの」

「……アイリス。今、ニューヨーク市保存協会は建築物の保護の為、条件に応じてその建築物の利用方法に制限をかけてるのだけど、ニューヨーク市にはそれに該当する建築物がどれくらいあるか知ってる? ホテル・ハイタワー以外に」
「──他にもあるの?」
「ええ、あったのよ」

 はあ、とアイリスは息を吐いた。

「……難しいことはちょっと」
「そうよね……そうなの。アイリスは活動それ自体にはあまり関わらないもの」
「でも、ローズが──」

 ローズは手をかざしてアイリスを制した。

「もういいの。──アイリス、あなたの人生の中心に私を置かなくていい。あなたは誰かの光を受けて輝く人じゃない。あなたにはあなたの光があって、輝きがあるのだから」
「……そんなこと、言われても」

 アイリスは小さく俯いた。

「あたしの人生に価値なんてあるのかな。……家に一人でいると、そんなことばかり考える。両親が望んだ舞台に立って、あたしは失敗した。託された夢を叶えられなかった。だから、ローズ。あたしはあなたの夢を叶えたい。せめて……もう失敗したくなかったの」
「アイリス──」

 アイリスの目に光る粒があった。

「なのに……もう、いい、なんて」

 アイリスは備え付けのナプキンを手に取り、両目に押し当てた。
 
「半年前にいなくなったこと、謝る……短気を起こしたあたしが、悪かったの。あたしがいなくならなきゃ、今みたいなおかしな状況、無かったかもしれない」
「アイリス、大丈夫。──悪く思ったことなんて無いわ」
「じゃあ、なんで」
「私はホテル・ハイタワーを守る為に必死に考えて、行動した。自慢じゃないけど、ホテルの展覧会や、それを発展させたツアーの催しも好評だったわ。知っての通り、好評は一時的なものだったけど……それでも常に良くなるように考えてる。それは、何を犠牲にしてもやらなきゃと思っているから。──情熱とか、使命感……それから喜び。やりがいと言ってもいいわ」

 ローズの言葉にアイリスは頷く。

「私はね、アイリス。あなたにも探して欲しい」
「……何を?」
「私がホテル・ハイタワーに抱いているような情熱を、あなたが持てる『何か』を探して。……それは誰かの夢を背負うだけでは、見つけられないわ」

   ⚜⚜⚜

「おはよ」

 パーティ当日の朝、リビングに下りて小声を上げたアイリスを、キッチンからオリンダが振り返った。
 
「おはよう。スープ作ったけど食うか? 気に入らなきゃバナナとオートミールがあるけど」

 オリンダは沸かしたスープの火を止める。
  
「ほんと?」
 
 流しで器具を洗うオリンダを避けながら、アイリスはキッチンに入る。鍋に入った卵と野菜のスープをレードルで一口すくった。
 
「寒い朝にはスープがいちばん」アイリスはそれを口に運び、僅かに眉を寄せた。「……やっぱりオートミールにする」
「あっそ。……牛乳は外」

 相変わらずの協会の制服で身支度を済ませたアイリスは玄関へ向かう。その背中に、オリンダは渋面を作った。 

「なんだ。パーティなのにまたそんな格好で行くのか。てっきり花柄のスカートでも履いてくのかと」
「あたしはもてなす側だから。オリンダも来ればいいのに」
「今日は夕方からバーで先約だ。いちおう聞くけど酒はある?」
「水しかない」
「あたしゃパス。ガキに混ざってオーナメント作りなんて死んでも御免だよ」

 牛乳瓶の入った木箱を抱えたアイリスは非難がましくオリンダを見た。

「……先約って何。カード?」
「もちろん」
「ああそうですか。せいぜい勝ってきてね」
「勝たせてもらうさ。なんならあんたを今からでも大学に入れてやれるくらいにな」
「それは頼もしいわ。ただ……生憎だけどあたしにその気はないから自分で通って」

 自分で用意した朝食を食べながらそうだ、とアイリスはオリンダに声をかけた。

「使ってないキャンドル無い? パーティで使いたい」
「いいよ、全部持ってけ」頷きながら、オリンダは苦笑する。「……火を苦手なあんたがキャンドルに囲まれるなんてちょっとしたピンチだな?」
「祈る振りして目をつぶって、息止めてるから大丈夫。──ごちそうさま」

   ⚜⚜⚜

 ヴィレッジの入り組んだ未舗装の路を歩き、アイリスは教会へと向かった。両側をレンガの壁に挟まれた路地を進みながら、泥と土の地面から無意識に裾を持ち上げる。

「おい、この狭い道に停めてんじゃねえよ。お陰で犬の糞を踏んじまった」

 入ろうとした小路の先で、停められた自転車を巡る口論が聞こえた。

「今度またやってみろ、サドルに糞を塗りたくってやる!」

(おお、怖)
 
 アイリスは引き返し、隣の小路へと足を進めた。そこでは野良犬が倒れたゴミ箱から食べ物を漁っている。通りに面した喫茶店から出たゴミにはごちそうがあるのだろうか。ごく近くでコーヒーカップの触れ合う音や、水仕事の音が聞こえた。

「……仕方ない」

 あまり側を通って犬の注意を引くのも気が引けた。アイリスは小路を引き返す。
 仕方ないと呟きながらも、アイリスは小さく笑う。
 劇場街の舗装された道や、書割のように綺麗な通りもそれはそれでいい。けれどもアイリスには、古い通りで目にする雑多なものが不思議と心地よく感じた。
 それは、磨き上げられた劇場の通りでは感じられない種類のものだ。泥の匂いと湿った空気、鉄の外階段に干されたブランケット、レンガの染み。歴史と呼ぶほどの大袈裟なものではない。それは恐らく、生活の痕跡と呼ぶ方が相応しい。
 整然な街並みからは見えない、人間らしさを見つけるのが好きだった。

「アイリス」

 干されたブランケットの柄に見とれながら歩を進めていたアイリスに、ふと声が掛かった。ビラを持ったニコラが通り掛かったのだった。

「こんにちは、ニコラ」
「アイリス、ちょうど良かった。教会のホールの飾り付けを頼めるか? 手が足りないらしいんだ」
「いいわよ」
「俺にはそういうセンスが無くて。とうとう追い出された」

 不服そうにビラを見つめるニコラにアイリスは苦笑した。

「そう気を落とさないで。呼び込みも立派な仕事」
「まぁ、そうだな」

 ニコラは頷き、呼び込みに戻る。アイリスはふと思うことがあり、教会へ向かいかけた足を止めた。 
  
 ──アイリス。あなたにも探して欲しい。

 先日のローズの言葉が念頭に浮かんで、アイリスはニコラの背中に問い掛けた。

「ねぇ、ひとつ聞いていい?」

 ニコラは振り返って怪訝にアイリスを見返す。

「──何?」
「ニコラはなんでニューヨーク市保存協会に入ったの?」
 
「なんでって……なんとなくだ」ニコラはそう言うと、アイリスに歩み寄る。「なんでそんなこと聞くんだ」 
「み……皆に聞いてる……」
「ほんとかよ?」

 言いながら、ニコラは首を掻いた。「俺……オヤジの勤めてる証券会社で電話番として働くはずだったんだけど、お前には根性がない、何でもいいから鍛えて出直してこいって言われて。だから、始めるなら文字通り何でもよかった」

 ニコラの答えにアイリスは目を丸くした。「……何でもいいから、でニューヨーク市保存協会を選んで、続けてるの?」
 
「そうだよ」
「抗議集団から石を投げられても、ギャングに殴られて活動を妨害されても?」
「まぁ、そうなるね」
「──あなた、根性あるじゃない」

 アイリスの感心の声に、ニコラは含羞んだように笑った。

「だよな。……俺もそう思う」

   ⚜⚜⚜

 陽光がステンドグラスを通してホールに虹のような光を落としていた。
 
「もっと左! そう、オーケー」
 
 張り上げられた声に応じて、数人が大きなテーブルを動かしていた。既に何枚もの赤いテーブルクロスの掛かったテーブルが並び、教会のホールは祭りの雰囲気を帯び始める。
 アイリスはクロスを広げ、皺を伸ばしながら周囲を見渡した。どこを見ても忙しそうな人影が行き交っている。

「うわっ、熱い」
 
 少年が指を振りながら笑っていた。ホールの隅で惣菜屋の女性が鍋の蓋を開け、立ち上がる蒸気に満足げに頷いていたところだった。
 
「大丈夫? ──次はパンを持ってきて」
「はい!」

 その近くではオレイリー氏がフィドルを抱え、弦を弾いて調子を確かめている。軽やかに響く音に、数人の子供たちが足を止めて見入っていた。オレイリーは彼らに気づくと、微笑みながら簡単なメロディを弾いてみせる。子供たちは手を叩きながら楽しげに跳ねた。 
 厨房から飛び出してきたリチャードが取り分け用の皿を抱えてホールを横切っていた。危うく協会員とぶつかりそうになる。
 
「ちょっと、気をつけてよ!」
「……すまない」

 皿をテーブルに置いて、息を吐いたリチャードがアイリスの視線に気付いた。アイリスは小さく手を上げる。「どうも」

 今日のリチャードはシンプルな茶色いスリーピースのジャケットを脱いで、ベスト姿だった。
 
「……まったく、一番見られたくない相手だ」リチャードは眉を寄せる。「七面鳥を切り分ける役目のはずが焼くのを手伝わされ、焼き上がる間に飾り付けを手伝わされ、皿を運ぶのを手伝わされ……今は何故か君に微笑を送られてる。七面鳥の数が1、合わないらしいぞ」
「……足りないの?」
「ああ。30が29になっただけだ、少しも楽にはならなかったがな」 
「何か、ごめん。包帯、とれたんだ」
「……途端にこの人使いだがね」
「皿は運んでおくから休んでいいわ」
「やめておけ。見た目よりも重い」
「大丈夫よ。言ってなかった? あたし怪力だから」

 アイリスが軽い調子で言うと、そうか、とリチャードは息を吐いた。

「じゃあ、お言葉に甘えて座っていよう……と、椅子が無いんだった」

 言って、リチャードは椅子を並べている協会員の所へ足を向ける。アイリスはその背中を見送った。
(素直じゃない人)
 アイリスは思う。リチャードは言い方こそ淡白だが、決して冷たい人間ではない。本音を語らず、内に秘める。
 リチャードは誠実な人間だ。初めて会った人間にたった一度、嘘をついた。……それだけだ。
 警戒の為だ、と自分の気持ちに嘘をつきつづけていたのはアイリスの方だった。ただ、自分の器の小ささを認めたくなかった。
 それに気付いた時、アイリスは無性に泣きたくなった。

    ⚜⚜⚜

 日が落ちた頃、ホールは人々のざわめきと笑い声で満ちていた。レストランのように長いテーブルが並び、赤いクロスの上には花が添えられている。
 七面鳥にクランベリーソース、ピラフのご馳走が協会員たちによって運ばれる中、アイリスは水を注いで回っていた。
 
「おいしいよ、ほんとうに」

 質素な身なりの中年男性がアイリスに話し掛けた。「よかったです」とアイリスが笑顔を返すと、彼は「祖国に家族がいるんだ」と話した。アイリスは彼の隣に腰を下ろす。

「稼ぎが安定しなくてね。ニューヨークに来たが、まだ家族を呼べずにいる……ここには1人で来たんだ」
「そうですか。……次は、ご家族も来れるといいですね」

 アイリスが言うと、男はああ、と力強く頷いた。

「きっと呼ぶ。ありがとう……話せてよかったよ」

 アイリスが腰を上げると、「アイリス」と子供の声が聞こえた。ホールを歩くジョニーの姿があった。

「ジョニー。来てくれたのね」
「うん。どれもおいしいね、ご馳走ばっかりだった。それで今、済んだ皿を洗い場に運ぶのを手伝ってるんだ」
「さすが、働き者だわ」
「食べた分は働かないと。知ってる? 教会の外は長蛇の列だぜ」

    ⚜⚜⚜

 アイリスは扉から身を乗り出し、列の奥を見やる。道に沿って長い列ができていた。

「ほんとだ……」

 列の中ほどから顔が見えたのはジェイクだった。彼と目が合い、アイリスは手を上げる。

「いらっしゃい」

 おう、と短く返答を寄越し、ジェイクは肩を竦めた。

「ずいぶん繁盛してるな。人足仲間も後で来るんだが、どうだろう……その時にはもうご馳走なんて残ってないかもな」
「そうね、早いもの勝ちだから。匂いだけでも瓶に入れていったら?」

 アイリスの言にジェイクは苦笑する。

「伝えとく」

 ホールに戻ると、ご馳走を楽しむ人々の傍らでメモにペンを走らせるマンフレッドの姿があった。アイリスは思わず歩み寄った。

「あなたも来たの?」

 振り返ったマンフレッドが目を丸くする。

「アイリスか。君は──ああ、失礼します。ご協力どうも。ディナーを楽しんで」

 マンフレッドは席を立ってアイリスに渋面を向けた。

「弁護士がどうのって話から音沙汰が無かったから心配したぞ」
「あ……ごめん」
「色々と平気か?」
「まぁ、うん。──平気。あなたはよく来られたわね。大丈夫? 協会員に刺されなかった?」
「実を言うと僕は今日、ニューヨーク市保存協会について好意的な記事を書くという人生初の試みの為にここにいる」

「それはまた」アイリスは肩を竦めて笑う。「──あなたの記事にしては斬新ね」

「今日はすべての人にとって特別な日になるだろう。たった今話を聞いた、イングランド人の方にとっても」
 
 マンフレッドが言うと、脇から「違う」と声が掛かる。女性が不服そうにスプーンをマンフレッドに向けていた。

「アイルランドよ。間違えないで」
「おっと、……これは失礼しました」
「先祖の土地をイングランド軍に奪われてからイングランド人のことは憎んでるの。そういう意味じゃドイツ人の方がまだ近いわね」
「……どういうことです?」
「はぁ……あなたほんとに新聞記者?」

 ふと、協会員たちの視線がホールの入口へ向いた。アイリスはそれを目で追った先に、ローズの姿を認めた。
 ローズは協会員たちに手を上げて挨拶をしながら、アイリスたちの方へと歩み寄る。アイリスは笑みを浮かべる。

「ローズ。杖、持ってないね」
「お疲れ様、アイリス。あれは飾りだと言ったでしょう。それとこちらは──ミスター・ストラング?」

 マンフレッドはローズを見るなり、大仰な咳払いをした。

「ミス・エンディコット。ちょうど良かった。あなたには是非、お聞きしたいことが」

 言って、彼はわざとらしくメモを開いてみせた。

「先日、暴徒によってホテル・ハイタワーが襲撃を受けましたね。その混乱のさなかで、ベアトリス会長が人質にとられたとの噂が出ているようです。その真偽のほどをお聞きしても?」
「あれは……」

 ローズは困惑したように首を振った。

「ご想像にお任せします。重要なのはその噂の真偽ではなく、私はまだ、ここに代表として立ち続けることができているということです」

 言って、ローズはマンフレッドを決然と見た。

「これは皆さまのおかげです。協会のメンバーや支援者、そして……命がけで私を助け出してくれた人たちのおかげ」

 ローズはアイリスとマンフレッドを交互に見る。

「ミスター・ストラング。いえ、マンフレッド。それからアイリス。……ありがとう」

 アイリスはローズに笑みを返す。

「そうだ。これ、返すんだった」

 アイリスはポケットから黒真珠のネックレスを取り出す。ああ、とローズは胸に手を当てた。

「そう、探していたの」
「ごめん、渡すタイミングあったのに遅くなって。──はい」

 ローズは手渡された黒真珠を両手で持つと、小さく笑ってアイリスの首にあてがった。アイリスは慌てたように首を振る。

「やめて、似合わない似合わない」
「アイリスが持ってて」
「ええ……しょうがないなぁ」

 言われて、仕方なくアイリスはネックレスを受け取った。 
 
    ⚜⚜⚜

 食事の後で、手作りのケーキとコーヒーが振舞われた。
 長テーブルを動かしてスペースを作ると、そこへオレイリーがフィドルを手に、彼の仲間がそれぞれの楽器を手にして集まった。

「まずはリールを一曲。普段は仲間の為に演奏しますが、今夜はここへお集りのなんとも寂しい人たちの為に」

 フィドルとティンホイッスルの明るい主旋律がホールに響いた。バンジョーの伴奏がそれを支える。2拍目と4拍目に協会員が揃って手拍子を送り、聞く者はリズムに乗って肩を揺らした。
 子供が手を叩きながら列になって飛び、協会員が手で作ったゲートの下をくぐる。いつしかそこに、老人、大人も入って大騒ぎになった。長テーブルに頬杖をついてそれを見守っていたマークは、隣にアイリスが立っているのに気づいて顔を上げた。アイリスはマグカップを手にマークの隣を示す。

「そこ、いい?」

 マークは無言で手を上げて長椅子を詰める。

「君のことだからてっきり、あれに混じっているのかと」
「後で混じるわ。調子はどう?」

 前かがみでマークをのぞき込むと、彼は眉を上げて答えた。

「会長が戻って我が協会は順調そのものさ。聞いたかな? ローズ、父親と和解したらしい」
「そうなの?」
「ああ。もう積極的に彼女のやろうとしていることにいちいち口出しも詮索もしないそうだ。提携、という言い方は大げさだけど、ツアーが再開したら蒸気船の絵葉書を土産屋に置くってさ」
「……なんていうか、歴史的」

 それで、とマークは口を開く。

「……僕は協会を辞める」
「辞める?」

 アイリスの怪訝な声に、マークは肩を竦めた。

「ボストンに新しい事業所ができるんだ。それで、忙しくなる。それに……こうなってしまったらもういる意味がないだろう。ローズはもう父親から監視されることは無い」
「そうだけど……」
「まあ、あくまで予定だ。マンフレッドは協会を救っておいて、また正面から戦うつもりでいるみたいだし。彼が続けろと言うなら、僕は続ける」
「そう……」
「君はどうする?」

 言って、マークはアイリスを見た。アイリスは少し考えた後、マグカップをテーブルに置いた。

「踊る」

 アイリスは立ち上がると、裾を上げてスキップしながらダンスの輪に加わっていった。マークも苦笑を残して長椅子を立つ。

「……答えたくないってか」

    ⚜⚜⚜

「わずかな時間でよくやったわね」

 カウンターでコーヒーを注いで渡すカミーラに、ローズが労いの言葉を掛けた。カミーラは誇らしげに頷く。

「皆さんのおかげです。この教会は、沢山の人に愛されていますから。……でもまぁ、私が優秀なおかげでもありますけど」
「ええ。ほんとうに」

 思うんです、とカミーラはホールの子供たちを見つめた。

「歴史って、どれだけ昔にできたかとか、あまり問題ではないんだなって。この教会はただのビルです。でもこうして見ると、沢山の人たちが集まって思い出を作ってる……確かに愛されている。私達が今ここでこうしていることこそ、『歴史』なんだって思います」
「そうね……その通りよ。だからこそ、私達は守らなければならない。たくさんの思い出と歴史が詰まった街を」

 賑やかな曲を何曲か演奏した後、フィドルと笛は郷愁を誘う3拍子の曲を奏でた。物寂しさと懐かしさを含んだメロディに、聞きながら涙を浮かべる人がいる中で、躰を寄せて踊る人々の姿もあった。
 マンフレッドがローズに歩み寄り、手を差し出す。

「ご一緒にどうですか。ミス・エンディコット」

 差し出された手を見つめるローズの横でカミーラが威嚇するようにマンフレッドを睨んだ。

「結構です! 会長はお忙しいので!」

 ぴしゃりと言うカミーラに、いいのよカミーラ、となだめるようにローズは苦笑した。

「……ええ、是非」

 ローズはマンフレッドの手に自らの手を重ねると、小さくお辞儀した。どこか楽しげな2人の様子にカミーラは溜め息を吐く。

「そんなぁ──」

    ⚜⚜⚜

 子供を膝に乗せて長椅子で休んでいたアイリスのもとに、リチャードが近寄ってきた。

「一緒にどうかな」

 片方の手を腰の後ろに回し、アイリスにもう片方を差し伸べる。アイリスはダンスの輪を一瞥して応えた。

「スキップも逆立ちもなし?」
「なしだ」
「じゃあ、他にも踊れる女性は沢山いるわ」
「そうだな」

 リチャードは否定せずに、しかし差し伸べた手を引っ込める様子は無かった。「でも君がいい」
 アイリスは息を吐いて膝の上の子供に声を掛けて下ろす。立ち上がると、リチャードの目をひたと見据えた。

「その前に謝らせて。……ごめんなさい」

 アイリスを見下ろすリチャードは首を捻った。
 
「謝罪は受け入れない。謝るのはこっちだ。最初から君を信用すべきだった。……悪かった」
「あと、ワルツは自信がないの」

 言いながら、アイリスはリチャードと手を重ねる。リチャードは少し躊躇って、口を開いた。
 
「弱音は君らしくないな。パメラ・スターレイ」
「……誰から聞いた?」
「別に誰にも。ただ行ったことがあるだけだ、たしか金色の竜の看板」
 リチャードは遠い目をして言ったあと、アイリスの目を見て、言葉尻に確信を込めた。「店のステージに……君がいた」

 口をあんぐりと開けるアイリスの手を引いて、リチャードはダンスの輪に加わる。リチャードは行儀よく片手をアイリスの背に回して、躰を近付けた。
 アイリスは相手の肩に手を置きながら、困惑の滲んだ目をリチャードに向ける。

「あたしを知ってた? いつから」
「さあ、いつからだろう。確信に変わったのは最近だ」
「あなた……」

 言いながら、アイリスはリチャードと初めて会った時のことを思い出す。

「あたしのこと『奥さんか』って聞いてきたわね」
「ああ、聞いた」
「それなりにどきっとしたのよ」
「そうか。それはすまなかった」

 淡泊な返答にアイリスは眉を寄せた。リチャードの胸に軽い頭突きを食らわせる。

「いっ──」
「このぐらい、どきっとした」
「……なかなかの衝撃だ」

 ローズとマンフレッドは手を取って躰を揺らしていたが、2人の間には距離があった。カミーラが傍にいたら確実に滑り込んでくる距離だろう。
 ふと、ローズがバランスを崩してたたらを踏んだ。
 マンフレッドがそれを支える。

「大丈夫かい」
「ええ……ごめんなさい。まだ爪先が少し痛んで」

 言われて、マンフレッドははっとなった。ローズの怪我が癒えていないところに、自分が無理をさせてしまったのだと悟った。

「それはいけない。──座って休もう」

 気付かなくてすまない、と詫びながら長椅子まで連れて行く。ローズは腰を下ろし、それでもマンフレッドの手を離そうとはしなかった。

「私や妻の音楽で癒されるという人たちがいますが、それは我々にしても同じです」

 演奏を終えて、オレイリーは大勢の前でスピーチをしていた。

「私たちの息子はやんちゃが過ぎて……今は牢屋にいます。それでも私たちがこうして楽しくやれているのは、そう……音楽と、祈りの力があったから。時計の針は戻らずとも、人は祈りでやり直せる。今夜……私と共に祈ってくれる者はいますかい?」

 にこやかにオレイリーが言うと、教会の端々から手が上がった。

    ⚜⚜⚜

 空は闇に覆われていた。
 街灯のオレンジ色の明かりが路地の石畳を淡く照らしている。オリンダは店を出て、夜の空気を深く吸い込んだ。
 ──賭けでは良い結果が出せた。
 喜びが胸を満たし、ほんのりと残る酒の余韻が頬を緩ませる。アイリスに新しい服や靴を買ってやれる、そんなささやかな勝ちだが、オリンダにとっては十分に誇らしい成果だった。

 オリンダは鼻歌交じりに軽やかな足取りで路地を進んだ。周囲の物音がだんだんと静まっていく中、ふと足を止めた。前方に影が動いた気がする。見慣れない男が立っていた。長身で、鷲鼻の顔立ち。服装は整っているが、どこか威圧感を醸し出している。

「やぁ、君がオリンダ?」
 
 男が低く馴れ馴れしい声を掛ける。声は落ち着いているが、底に潜む不気味な響きが耳に残った。

「おい……誰だ、あんた」
 
 オリンダは警戒心を隠しきれず、眉をひそめた。男は一歩前に進み、不敵な笑みを浮かべる。

「アイリスの友達だ。実はちょっと話があるんだよねぇ……いいだろう?」

 名前を告げられたことと、その態度に何かただならぬものを感じとり、オリンダは身を硬くした。胸の奥に湧いた不穏な予感を、この時オリンダは言葉に出来なかった。

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