![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/164648604/rectangle_large_type_2_5463c94b76af60636a3e2f5201685838.png?width=1200)
GASLIT STREET C02 「過ぎし日々」
CHAPTER 2
OLD DAYS
1912年 5月
ニューヨーク市
門扉を開けると、玄関まで石畳が続いていた。2人分の足音がこつこつと鳴っている。
アイリスは刈り込まれた芝生の中央に伸びる小径をローズと歩いていた。先を歩くローズの背中に緊張が滲んでいるのを感じ、アイリスは声を掛ける。
「ローズ。平気?」
「……ええ、平気。人生でいちばん平気よ」
ローズの声は落ち着いていた。
この日のローズは白いシルクのブラウスに、同じく白い長めのスカートを合わせていた。
ウエストに結ばれたリボンが細身のシルエットを引き立てている。歩くたび僅かに揺れるリボンを見ながら、アイリスは昔を思い出していた。大仰にドレスの裾を持ち上げ、足元を気にしながら歩く従姉の姿は、幼い頃から貴婦人のようだった。今日もその名残が見られ、彼女の一歩一歩に気品が漂っている。
首元で優美に輝く黒真珠のネックレスは、ローズのお気に入りだった。
アイリスはというと、主人が保守的なこの家を訪ねるのに、わざわざ赤のドレスを選んだ。対峙するかもしれない高慢な男に気圧されてはならないと思い、挑むように着飾った結果がこの格好だ。
ここに来て己の軽薄さと幼さを感じ、恥じ入るような気持ちで、アイリスはローズの少し後ろを歩いていた。
玄関に着き、ローズはひとつ息を吐くと、ベルに手を伸ばした。
いくらもたたないうちにドアが開き、女が顔を覗かせた。
「──まあ、ローズ」
質素な部屋着姿でドアを開けたヴァネッサは、驚いたように声を上げた。
「ごきげんようヴァネッサ。しばらくぶりね」
ローズは柔らかく笑んでみせた。ヴァネッサは痩せた30代後半の女だった。ローズの話では、骨董品に詳しいらしい。ローズの声に微かに反応しつつも、彼女の眼には疲れと憂いが浮かんでいた。頬はややこけ、目の下にうっすらと影が差している。
ローズの目に心配の色が浮かんだ。
「どうしたの。なんだかひどく疲れているみたい」
「そうかしら……そうかもね」
「少し話せる?」
「ええ、できればそうしたいのだけど……」
アイリスは友人同士の2人のやりとりを横で見ながら、ヴァネッサの歯切れの悪さが何に由来するものなのかを考えた。
ヴァネッサはしきりに、背後を気にするように振り返っている。物音がして、その人物が玄関に現れる所だった。
「ヴァネッサ、何をしている。誰だい、その人たちは」
夫と思しき男は、胡乱げにローズとアイリスを見やった。
若い男だったが、短く整った髪も揃えられた髭も、どこか堅苦しい。小柄なヴァネッサがより一層肩を縮めるのを見て取り、アイリスはこの男が例の「保守的な主人」だと確信した。
「私はヴァネッサの友人の、ベアトリス・ローズ・エンディコットと申します」ローズは言った。「このたびニューヨーク市保存協会の設立にあたって、ヴァネッサさんにお話ししたいことがありまして」
ローズはよそよそしく、媚びたような笑顔を浮かべていた。目の前にいる人物と、この時間に少しでも良い関係を築こうとしているのがよく分かった。
「ニューヨーク市、何だって」
「ニューヨーク市保存協会です。現在、不当な理由で解体の危機にあるホテル・ハイタワーについて、ヴァネッサさんの知識とお力をお貸しいただきたいのです」
「知識に力、か」
男は穏やかに笑い、玄関先に掛けてあったツィードの上着を手に取る。
「私の知る限り、これは大した助力にはならんと思うがね」
微笑を浮かべた男はヴァネッサをちらと見やった後、ローズを見据える。物腰は柔らかいが、言葉の端々に有無を言わせぬ棘が感じられた。
「悪いけど、出かける用事があるんで失礼するよ。君の言う協会とやらにヴァネッサが参加することは無い。無論、私もだ。女がただ集まってお茶をしている、ままごとみたいな会合だろう」
「待ってください。彼女とお話だけでも」
「何度も言わせないでくれ」
突き放すように言うと、男はドアを押し開けた。
「お前も黙ってそこに突っ立っていないで」ヴァネッサを振り返り、彼は言う。「すべきことのひとつでも終わらせたらどうだ」
言われたヴァネッサは気落ちしたように顔を伏せ、ドアをゆっくりと閉める。
「ごめんなさい、ローズ。力にはなれないわ──」
消え入るような声と眼前で閉じたドアに、ローズは力なく頭を垂れた。
男とすれ違うとき、わずかに甘い香りがアイリスの鼻をついた。明るくて、軽やか。春の花を思わせるような。
(変だ──)
アイリスは違和感の正体を言語化しようとした。それが形を持つ前に、ヴァネッサの夫がローズ達に振り返る。
「まだ何か?」
笑顔の男の顔を、アイリスはひたと見た。
「香水について、お詳しいですか?」
アイリスが口を開いた。ヴァネッサの夫は首を傾げる。
「なんだね急に。君は?」
「失礼しました。私はローズの手伝いの、アイリスと申します」
決然と聞こえるように、アイリスは背筋を伸ばす。
「香水が何だって?」
アイリスは笑みを浮かべた。(怖くなんかない)
ローズの方は、目を丸くしてアイリスを見ている。
「あなたから『青春の花』の香りがしたものですから、つい。香りが特徴的で」
「……何だって?」
眉間に皺が寄ったのは困惑の為か、不快さの為か。そんな様子を意にも介さず、アイリスは彼に歩み寄った。
「流行りですが、どちらかといえば若向けのものです。香りって、慣れてしまうと自分じゃ分からないものですよね。けど周りには意外と気付かれてしまうんです。色んな所にしみついてしまうから……借り物とかね」
言ったアイリスは、彼の上着のポケットから覗いていたピンク色のハンカチを引き抜き、眼前に突き出す。
「奥様の趣味ではなさそうですけど……これ以上は聞かない方が良いでしょうか」
「おい、君」
ヴァネッサの夫は慌てたように声を上げ、ハンカチをむしるように取り上げた。
「私達はヴァネッサさんの味方です。彼女が心から幸せになるために、必要な助けを提供したい。仮にあなたがヴァネッサさんに対して誠実でない行いをしているのならば、彼女にも私達の話を聞く権利があると思いませんか?」
男は取り上げたハンカチとアイリスの顔を交互に見た。
うまくいっているのかは分からない。胃の底が締め付けられる感覚と、心臓の激しい拍動を同時に感じた。それらを落ち着けるように、アイリスは唇を結んだままゆっくりと息を吐く。
ヴァネッサの夫はふいに目を逸らした。顔には冷や汗が浮かび、手に持ったハンカチを無意識に握りしめている。
「……まあ、そこまで言うなら、好きにしたまえ」
そう言ってハンカチをポケットに押し込み、彼は逃げるように門へ向かった。
アイリスはその背中に笑みを向けた。
「どうも、ありがとうございます」
言いながら、アイリスは肩の力が一気に抜けるのを感じた。
赤いドレスを着ていてよかった、とその時アイリスは思った。
⚜⚜⚜
高架電車を降りてホームを抜ける間も、ローズの身体は踊りだしそうに揺れていた。
おおよそ貴婦人らしからぬ様子で、にやにやと歯を出して笑い、アイリスを見ている。アイリスはローズの視線が気恥ずかしく、移動の間はわざと目を合わせずにいた。
駅の階段を下ってブロードウェイに降り立ったところで、ローズは飛び跳ねてアイリスに向き直った。
「ヴァネッサを入れて、これで12人。ついにやったわ!」
声高に喜びを表現する従姉に、道行く人が振り返って微笑を送る。
アイリスを力いっぱい抱きしめるので、アイリスはやめてよ、と体をゆすってローズを振り解いた。
「ローズったら、大きな声を出して」
「歴史の専門家に不動産の専門家のつてもあるし、提示された要件は満たしてる。ニューヨーク市保存協会の結成ね」
「お喜びのところ悪いけど、住所は空欄よ。どこでもいいから、早めに事務所を借りないと」
アイリスの言葉にローズは頷く。
「大丈夫よ。話は通してあるから」
「……驚いた。あてがあるの?」
「カールッチ・ビルの3階の一室よ。1階の人に鍵を預けてあるって」
「さすがローズ。手際がいいのね」
アイリスの言に、ローズは得意げに笑った。
「公園で協会のことを思いついてすぐ家に帰って、電話で手配したのよ。早く行きましょう」
子供のように駆け出すローズを、アイリスは慌てて追った。
「待ってよ!」
走りながら、アイリスは思った。
──上の姉達を真似て気取った歩き方をしているローズではなく、こっちが本当のローズなのだ、と。
⚜⚜⚜
「うん、狭いけどいい感じ」
ローズは埃の舞う部屋をずんずんと進む。カーテンを開け、次いで窓を開けた。
「まずは電話線を引かないと。……このデスクは修理の必要がありそうね」
ローズは部屋に置いてある唯一の家具であるデスクの下を屈んで覗き込む。西陽を受けたローズの白い服は眩しかった。アイリスは部屋を見渡して、目を瞬かせる。目算、決して広いとは言えない部屋だ。
「……本棚2つにデスクがあと1つ、多くても2つがせいぜいってとこね」
アイリスのぼやきにローズはそうね、と呟く。
「事務所の広さとしては充分よ、目的さえ果たせればね」
「目的って、あのホテル・ハイタワーを守る?」
ローズは窓の外を眺めたまま、大きく頷いた。
「ホテル・ハイタワーを取り壊すなんて絶対にさせない。お父様の好きになんてさせないんだから。私達の手で阻止するの」
ローズは振り返って、2つある窓のうちひとつの窓枠に寄りかかる。アイリスは歩み寄って、もうひとつにもたれた。
ローズは悪戯っぽい笑みでアイリスを見た。
「それよりあの時、なんて言ったかしら。ほら、香水の」
「……ローズ、やめてよ」
「フルール・ド・ジュネス?」
「やめてってば」
声を上げるアイリスに、ローズはくつくつと笑った。
「それ、昔読んでた児童文学のタイトルじゃなかった?」
「記憶がいいんだから。ローズは」
「うまいハッタリだったわ。じっさい彼は不貞を働いていたみたいだし……もっとも、ヴァネッサはとっくに気づいていたみたいだけど」
アイリスはなんとなく面映ゆい気持ちになり、うなじを掻いた。
「心臓がはじけるかと」
「かっこよかったわ、アイリス。ありがと」
ローズはアイリスにとびきりの笑みを寄越す。アイリスはローズから視線を逸らし、ぼやいた。
「ずるいなあ、ローズは」
「……とうとう、来るところまで来ちゃった」
ローズは気後れしたように、顔を伏せる。
「せっかくお父さまの計らいで色々な事業に誘われていたのに」
ローズは大きく息を吐いた。「いつまで籠城できるかしら。ニューヨークいちの大富豪のお父さまを敵に回して、この……小さな城で」
「……ローズには、道が用意されてたのね。向かうべき道が」
ローズは頷く。でも、とアイリスは続けた。
「道を外れる自由はあるの。──いつだって、誰にだって」
⚜⚜⚜
「あれもドラゴン、これもドラゴンね」
ハイタワー三世の書斎を見渡し、アイリスが呟く。
壁紙には羽根を広げたドラゴンの文様、御影石の柱にはドラゴンの爪の装飾。ホテル・ハイタワー──パーク・アベニュー1番地。その住所にちなんで、この部屋は「パーク・プレイスの竜」などと呼ばれていたそう。呆れるほどの高い天井。大きな採光窓はハイタワー三世自身の姿が象られたステンドグラスになっていた。司祭か牧師にでも会うような気分になる。
ローズは感嘆を露わに、部屋中を見渡した。
「ここはホテルになる前から、もともとハイタワー三世の邸宅だったの。あの夜以来、誰も立ち入っていないこの空間。……この目で見られるなんて、夢みたい」
ローズは小躍りしながら内装を間近で観察していた。アイリスも部屋の様子を眺める。
埃とカビの匂いがした。
──13年もの間、放置された建造物である。
明かりもなく、デスク周りの調度品を覆うヴェールのような蜘蛛の巣。荒れ果てたその姿は廃墟そのものだった。
ここまで来るのに、ローズとアイリスはホテルのロビー、そして書斎入口の待ち合い室を抜けてきていた。ロビーにはハイタワー三世の旅を描いた壁画、待ち合い室には写真と、ゲストが通る道はハイタワー三世が辿った冒険史そのものを追体験するような作りになっている。
「荒れていても、彼の輝かしい歴史は色褪せることがないわ。こうしていても、建物から彼のオーラを感じるみたい」
ローズはうっとりと呟く。
「オーラね……確かに見えるわ。帝国主義のオーラが」
「アイリス。そんな言い方」
「はいはい……」
相槌をしながら、アイリスは別の事を考えていた。ゲストの通路からハイタワー三世のプライベートスペースへ入る。
机に置かれた本に虫眼鏡。雑多な置物。動物の頭骨。円盤式の蓄音機。アイリスはなぞるように机の表面を指で撫でた。
(オーナーの失踪から13年。誰の手も入っていない──ほんとに?)
アイリスは机に積まれた本に顔を近付けた。本を動かしたかのような、四角い痕跡があった。そこだけ埃が積もっていない。続いて机の下、床の上。
「ここ……誰かがいたのかな」
アイリスの言葉に、ローズは振り返る。
「どうかしたの?」
「ほら、ここ」
床の埃が、椅子の脚を動かした跡のように払われていた。
「本当に。何故かしら……」
ローズは注意深く椅子の下を観察した。アイリスはここへ来るまでに、同じ違和感を覚えていた。待ち合い室の床の埃や、ロビーに置かれた備品の位置。
(誰かの手が入ってる。……それも、一度や二度じゃない)
肘掛け椅子から視線を外して、アイリスは通路に戻った。壁に沿うように歩き、行き止まりに当たる。
甲冑に身を包んだハイタワー三世の肖像画が飾られていた。彼は馬に跨り、手にした槍で竜の首元を貫いている。絵の下部にその意味を言わんとしているのか、ラテン語のメッセージが書かれていた。
Draconi Dissoluti Perniciem Meritant
「だらけた竜は……滅ぶべし……みたいな」
ラテン語をたどたどしく訳すアイリス。すると突然、音を立てて肖像画が──動いた。
「アイリス、大変」
肘掛け椅子の場所からローズが叫ぶ。「椅子の下の所にスイッチがあったから、押したの」
アイリスは目を見開いて、ローズに視線をやった。
「そのせいなの……?」
肖像画が動き、その先に通路が見えた。
「こ……これ、この絵、隠し扉だったみたい」
⚜⚜⚜
ピラミッドを探る発掘家にでもなった気分で、ローズとアイリスは通路を進んだ。淀んだ空気には湿気が混じり、2人は思わず口にハンカチを当てていた。懐中電灯の明かりを頼りに先へ進む。
「ここって……」
なんなの、とアイリスが言いかけ、青黒い通路の闇の先に見えたものに絶句した。
石像、石柱、それはエジプトのもの、アジアのもの、あるいはアフリカのものかもしれない。数階建て分の高さの天井と、大小さまざまな収集品が放置されている床──その有り様はまさしく倉庫だった。
冒険旅行によってハイタワー三世が手に入れた、文化的な価値のある収集品なのかもしれない。それでも、人や怪物、神を象ったそれらが詰め込まれた光景は異様だった。
おぞましい……などと口にしたらローズは怒るだろうか。
「この部屋は、彼や彼に近しい人達しか存在を知らなかったはず」
ローズは真剣な声で呟いた。
「やったわ、アイリス。……これは大発見よ。この部屋の存在だけで、団体の存続理由の大半を説明できるほどにね」
アイリスは喉を鳴らした。
ローズが口の端を上げているのが、僅かな光で見て取れた。ローズとアイリスの冒険は今まさに、城の深くに眠る宝物の発見をもたらしたのである。
冒険の香りは、埃とカビのもの。
──眼前の光景は、決して空想などではなかった。
⚜⚜⚜
「社交界でお目に掛かるお嬢さん方はね、例外なく過保護だよ」
事務所の入口近くのデスクで協会の制服を着た男が言う。2人目の協会員がそうかい、と話に相槌を打った。
「ただ、このあいだのパーティで会った子に関して一言言わせてもらうと、彼女は最高だ」
ヴァネッサの加入から1ヶ月が経とうとしていた。
無駄話に花を咲かせる協会員達に目配せすると、アイリスは苦々しげにデスクから立ち上がり、ローズのデスクに両手をついた。書面をためつすがめつしていたローズは顔を上げ、アイリスを見返す。
「どうしたの」
アイリスは渋面を作り、小声で言った。
「──ハイタワー・コレクションのリストが予定の一割も埋まってない」
ローズは黙ったまま、困ったように首を振る。アイリスは息を吐いた。
「人は増えてる。なのに協会の存在感がまるでない。ホテル・ハイタワーの価値を啓蒙するどころじゃない、この協会の存在価値まで疑わしいわ」
「そうね。人が増えた分色んな選択肢が増えて、かえって運営が難しくなったのも、あると思う」
「こんなんじゃいつまで経っても公認なんて無理。分かってる? 展覧会の準備も結構だけど、並行してロビイングも進めないと。だいたい、この間引き入れたっていう事務のカミーラはどこ? タイプができて1分間に60ワード打てるなんて言ってたから期待していたのに、あたしはまだその子の顔を知らない。結局、その分はあたしがやってるじゃない」
「ごめんなさい──」
顔をいっそう歪めるアイリスを、ローズは心配そうに見返した。アイリスの焦りと苛立ちを察しているのだろう。そんなローズの訳知り顔も、アイリスには無性に腹が立った。
自分がいったい何の為にここにいるのか。
「君はイタリア人だな」2人目の協会員が呆れたように言った。「まったく、本当に。イタリア人だよ」
アイリスは耐えかねたように入口を振り返る。
「ちょっと」
睨めつけられた2人の協会員の肩が跳ねた。
「悪いけど、そういう無駄話は店か家でしてもらえるかしら」
「わ、わかったよ」
最初の協会員がすまなそうに頭を掻いた。
「アイリス……別に人が溢れてとか、そういうことでもないの。協会員の中にも辞めたがっている人もいるし」
ローズの言葉に、アイリスは首を傾げた。
「辞める? どうして」
「頭数のために無理を聞いてくれた人達もいたの。ほとんどはそういう人達。他にも、色んな事情があるわ」
言いながら、ローズの視線は事務所の床の上を泳いでいた。アイリスは眦を上げ、詰め寄るように尋ねた。
「どんな事情?」
ローズは唇を噛んだ。ローズがそうするのは、たいてい言い出しにくい事がある時だ。
アイリスに言えない、彼らの事情。
考えられることはいくつもない。
アイリスはそう、と一つ息を吐いた。
「──あたしが原因ってわけ」
「違うわアイリス」
「違わないわ、ローズ。色んな人が色んな立場でここにいる。ニューヨーク市保存協会はそんな人達の心温まる居場所。そういう人達に誰彼構わず吠え散らかしてるあたしはもう、邪魔者ってことね」
突き放すように言って、アイリスは踵を返した。まっすぐに事務所のドアに向かう。歩きながら自身の躰から引きはがすようにして、着ていた紺のベストを脱いだ。
仕立て屋にあつらえてもらったばかりの、ニューヨーク市保存協会の制服だった。
ローズが立ち上がる。
「待って」
「……空っぽのあたしの代わりに、あなたが夢を見てくれた。だからあたしは、それに酔ってただけ。──楽しかった」
さよなら、と言い残し、アイリスは事務所を出た。後ろ手でドアを閉じ、顔を伏せる。それ以降、アイリスは事務所に姿を見せることはなかった。
──ニューヨーク市保存協会が公認を得る、1週間前のことだった。
⚜⚜⚜
5ヶ月後
ウェストチェスター郡 スカーズデール
「エンディコットさん、はっきり言います。あなたには失望しました」
ウィーバー夫人は厳しい表情でアイリスを見つめ、手元の書類を一瞥してから話を始めた。
「今回の件に関して、説明していただけますね」
狭い事務室に呼び出されたアイリスは重苦しい空気を感じながら、デスクにつくウィーバー夫人と、傍らに座る雇い主のウォルターズの顔を交互に見た。ウォルターズは丸顔に怒りを湛えながらも、銀行員らしく金縁の眼鏡を神経質そうに上げる。
「えっと……」
アイリスは緊張で喉が渇くのを感じながら、口を開く。
「私はただ、子供たちと少し楽しんでいただけです。彼らの笑顔が見たくて──」
その言葉を遮るように、ウォルターズが椅子から身を乗り出した。
「楽しんでいた? 私の子供たちの前で私を侮辱し、楽しんでいたと言うのか」
声を上げたウォルターズの顔は紅潮し、撫でつけても隠せない禿げたところまでも赤くなっている。「君が私の口調を真似て笑いを取っているのを見た時、どれほど恥ずかしい思いをしたか」
「申し訳ありません。決して悪意があったわけではないんです、ただの冗談で」
ウォルターズ氏と同様に、ウィーバー夫人はアイリスの弁解を受け入れるつもりは無いようだった。
「パメラ・アイリス・エンディコットさん。ハイスクールでは成績優秀。あなたの芸術の素養や語学力は評価に値します。ですが、当紹介所が希望者に求めるのはそれらよりもむしろ、淑女としての振る舞いです。雇い主に対する敬意を欠いた行動は、どんな理由であれ許されるものではありません」
「──申し訳ありませんでした。二度とこのようなことがないように、気をつけます」
アイリスは神妙な顔をして言った。胸の奥が締め付けられるような気がして、アイリスは身をすくめる。
情けない、と思った。
ウィーバー夫人はしばらく沈黙した後、重々しく頷いた。
「次回同じようなことがあれば、紹介所から除名します。ウォルターズさん、よろしいですか」
この度はすみません、とウィーバー夫人はウォルターズに謝意を示す。彼は不満げに唸りながら立ち上がり、アイリスに一瞥をくれ、
「エンディコット……成り上がりめ」
と忌々しげに呟いて事務室を後にした。アイリスはウィーバー夫人に目をやると、彼女は顎で扉を示している。
出ていけ、と言われているようだった。
⚜⚜⚜
「マーガレットの機嫌が悪かったのは君のせいか、アイリス」
待合室を出たところで、アイリスは受付にいた初老の男に呼び止められた。名も知らない紹介所の受付の男は、ここへ来てからアイリスの話し相手になっている。
「家庭教師をクビになったって? まったく懲りないもんだな」
「……あたしの物まねが雇い主のお気に召さなかったみたい」
軽口を叩くように言ったアイリスの声はしかし、明らかに沈んでいた。受付係は呆れたように首を振る。
「じっさい、あまり失態ばかり演じていると本当に働き口がなくなるよ。いっそのことマンハッタンの紹介所にでも行ったらどうだね。昔と違って便利な足が増えたんだ。ここから通うんだって、できないことじゃないだろう」
「でも」アイリスは子供が駄々をこねるように言った。「マンハッタンは人が多いし」
「その分、職には困らない。賃金や労働時間はまちまちだが、少なくともこの辺で家庭教師の職を探すよりは気にすることが少なくて済む」
「気にすることって?」
受付係は苦笑した。「淑女としての振る舞いとかかね」
アイリスは大きく息を吐いた。自然と溜息になる。
「いいかいアイリス。都心じゃ働き口なんて引く手あまただ。女性の看護師にタイピスト、デパート店員なんて私の頃より10倍近くに増えてる。女性のいない職場なんて今時、港湾労働者くらいのもんだ」
「……ほんとかなあ」
「賃金的には男性の半分が相場だが、これでも良い方だ。この辺りでの職となってくると、お堅い家の家庭教師か家政婦、工場勤務に農業手伝いくらいのもんだ」
「メイド服なんて着たくない。この辺に住んでるギリシャ人一家の農業でも手伝おうかしら」
ちらりと目にした求人を思い返しながら、アイリスは呟いた。受付係は怪訝にアイリスを見る。
「その場合、賃金は男性の半分以下だ。そんなに都心が嫌?」
「……知り合いが多いから」
アイリスは少し俯いて言った。「会いたくない人たちがいるの」
受付係は少し眉をひそめた。それに、とアイリスは続ける。
「このエンディコットって名前……ちょっと有名で」
アイリスはさらに声を小さくして言った。伯父の名前は今やニューヨークでいちばんの大富豪を意味する。余計な色目を向けられるのは嫌だった。
「まあ確かに有名だ。でも考え方によっちゃあ、この辺の人らの方がよっぽど色眼鏡だと思うけどなあ。古い家の金持ちなんか、特にそうだ」
受付係は台帳を捲りながら、静かに語った。
「都心で働くにしても、ここで働くにしても、結局は君自身がどうしたいかだ。君にはずんぶん特技が多いとマーガレットが言っていたよ。語学に芸術、歌に踊り。所長は厳しく見えるが、君のそういうところは評価しているんだ」
その言葉に、アイリスは一瞬目を見開いた。受付係はにこやかにアイリスを見る。
「家庭教師なんて枠にはまった世界より、君にはもっと相応しい世界があるように、私は思うよ」
アイリスは、言葉を少しずつ噛み砕くように頷いた。
「そうかもね」
受付係は「君ならきっと、どこでもやっていけるさ」と笑う。
「……昔、ショービジネスの世界にいたことがあって」
アイリスの言葉に、彼はへえ、と頷いた。
「初耳だ」
「言ってないから」
「戻る気はないのかい?」
「戻りたくても戻れない。そもそも、戻りたくもない世界」
「……何があったんだい?」
「今回と一緒よ。人を怒らせて、失望させた挙げ句……劇場街から干された。──それだけ」
「芸能界の事情ってやつか。──ああ、どうも。まずこちらにお名前を」
ドアが開いて就業希望者が来たので、受付係は応対に戻る。アイリスはひとつ息を吐き、その希望者とすれ違うようにドアを押し開けた。
⚜⚜⚜
1912年 11月
物音に気づいたオリンダが居間に降りると、アイリスはぼんやりとテーブルに肘をついていた。薄いカーテンを引いた窓から朝日が差し込んでいる。アイリスはテーブルに置いてある便箋に視線を落としていた。
「物音がしたから、様子を見に来た」
オリンダは言って、アイリスの目を覗き込んだ。
「……踏ん切りがつかなくて」
ローズの所へ行く、と昨夜は言っていた。浮かない返答のアイリスに、オリンダは苦笑して溜息を吐く。
「はたから見ていて思っていたけど、ローズと一緒に何かをやっている時のあんたは、いつも楽しそうだったぞ」
「でも……あの時と同じようでいられるかしら」
「同じさ。あんたはあの時のまんまだよ。ただちょっと……自信がないだけで。ローズはあんたに手紙を寄越した。そりゃあんたが特別だからだ」
オリンダは座るアイリスの両肩に手を置いた。外へ出てから、思い直して戻ったのだろうか。アイリスの体は冷気を帯びていた。自分の温もりが少しでもアイリスを元気づけられればいい、と思った。
「ローズはあたしを買いかぶりすぎ」
「あたしはそう思わない。あんたは特別だと思う」
「……どこが?」
「どこって……あー、今度気が向いたら教えてやる」
アイリスはむっとオリンダを睨んだ。
「今がいい」
「やだね」
オリンダは首を振った。
「いいから行ってきな、マンハッタンに。ローズに会って、面倒事を全部解決して来るんだ。さもなきゃまともな職を探せ。あと──伯父さまへのお手紙も忘れずにな」
「……マンハッタンに行く」
「泣き言で紙面を埋め尽くして、生活費をたんまり貰おう」
「行くってば」
アイリスは深呼吸して立ち上がる。そして、よし、と何かを決心したように大きく頷いた。
オリンダがぱん、とアイリスの背中を叩く。
「シガレットホルダー持ったか?」
「外では吸わない」
「外だろうが中だろうが使った方が良い。白い歯がヤニで台無しになるぞ。金はある?」
「電車賃貸して。50セント」
「わかった。30貸してやる」
⚜⚜⚜
電車を降り、地上への階段を下っている時だった。
目の前を歩いていた老紳士が急に立ち止まり、アイリスの肩がぶつかった。
すみません、と一言謝るアイリス。
耳が悪いのか、聞こえない様子の老紳士の様子に、アイリスは怪訝に思いながらそのまま歩を進めた。すると老紳士はしかめっ面をアイリスに向けて突然、怒鳴り声を上げた。
「おい、ぶつかっておいて! 謝ったらどうなんだ!」
アイリスは地上に向かいかけた足を止め、階段を引き返す。(なによ)老紳士の正面に立ち、声を張り上げた。
「すみませんでしたっ!」
道行く通行人の肩が跳ねた。
目を丸くする老紳士にアイリスは踵を返し、階段を駆け下りる。舗道に立つと、高架の屋根が途切れて日差しをもろに受けた。
──目を細め、アイリスは空を仰ぎ見る。
高層建築の谷間の向こうに細い雲が浮かんでいた。その両端は立ち並ぶ建物によって切り取られている。
悪態をつくように、アイリスは呟いた。
「マンハッタン……最高の街ね」
![](https://assets.st-note.com/img/1733461542-sj4wpqyZOuaDKfdn6YSEQUHo.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1733461542-guUGNtfHb8d65jQvw9ys2rI0.png?width=1200)